背伸び
初回に、ドアを開ける理由について書いた。
それにコメントをつけてくれた方がいて、それを読んだ時に「そうだ、これはひとつのきっかけだよな。」と思えたことがあった。
「背伸び」。
僕も若かりし頃はそれなりにがんばっていたと思う。そういうことを。
わかりもしないのに小難しい映画やら本やら美術館通いに手を出したりしたものだ。
今と違ってそんなにネットも発達していない時代、知らない事やわからないことは身を以て体験しなければ得られないものがほとんどだった。
お金も時間もかかったけどあれは良いものだった。
おかげで今でも小難しい本を読むのや美術館通いは趣味だし、たまにはカメラもいじったりするようになった。残念ながら、映画はほとんど観ることがなくなってしまったけど。
当時を振り返るとがんばって背伸びしてたな…と、なんとも言えない気持ちになる。
それが青く多感で良い時期だったと言うべきかもしれない。
自分では背伸びをしていたという感覚はなかったけど、振り返ってこう思うのだから周りからはそう見えていたんじゃないか。
あの時の、今じゃ苦笑交じりに思い出す「背伸びというがんばり」が今を作っているのは間違いない。
ありがたいことにあの当時、わかりもせずにとりあえず勉強代という名目で(そんな風に考えたことは1度たりとて無かったが)アタマに詰め込んだりカラダで経験したことは今の仕事にとても役立っている。
それは実際的とか直截的というものではなく、間接的に。しかし仕事の周縁を埋めるものこそが今の仕事の実質を補強し、厚みを持たせていると実感することはとても多い。
今ならネットを漁れば5分で得られるような事ばかりだ。きっと。
だけど指先で得たものと体験して得たものは書くまでもないと思うが天と地ほどの差がある。
そういう意味で体験として、カラダを使って得たもの、身銭を切って得たものはそうそう忘れない。
血となり肉となる。これは経験から言って断言できる。
そして、「背伸び」というのはある程度の年齢までしか出来ない贅沢だ。
人は歳を重ねれば本能的に守りに入る。アタマも感性も硬化していく。
ほとんど全てのヒトは生涯柔軟であり続けるなんてことはできるもんじゃない。
年相応の振る舞いを求められるし、やったところでそれすら「年相応の柔軟性」でしかないことがほとんどだ。更に残念なことに大体は”年寄りの冷や水”にしかなり得ない。
いま風に言えば「イタイ大人」と言ったところか。
だからこそ、「背伸び」という言葉で済ますことができる時に興味がある事へ触れるのはとても大事だと振り返って思う。
やってみたいことは抱えきれないほどあった。やらなかったことへの後悔はかなりの数に、大きさに上る。
そして悲しいかな、そういう「背伸びをしてまでやってみたい」事も年を重ねれば重ねるだけ減ってもいくのだ。
経験した範囲、できる範囲でやってみたい事はまだまだ数多くある。これだけでもまだ救いがあるとは思える。それでも所詮は「できる範囲」の事。未知へ手を伸ばすにはいろいろ足りなくなっていく。吸収力とか集中力とか、なにより意欲。また、その他諸々。
今は表層を得る方法はごまんとある。フックを掴むのにはとてもいい時代だ。でも本質を得るには困難な時代だと思う。
簡単にサワリを得られるから、深く触れようと思う機会は間違いなく減じていると思う。
easy come easy go <得やすく失いやすい>な時代じゃないだろうか。
だから少しでも興味を持ったものにはいくぶん手間がかかっても、時間やお金がかかっても手を出してみることをオススメしたい。
僕もそこそこいい歳で、まだそういうことができる時代を生きてきた人間だから言えてしまう / 言ってしまうのかもしれないけど、「背伸び」というのは出来ること自体が贅沢だし、長期的にみれば間違いなく自身を豊かにするものだと言える。
もし今、なにかしてみたい事や気になることがあるなら触れてみた方が、体験してみた方がいい。
よく言われることだが人生はそんなに長くない。
迷っているヒマなんてそんなにあるわけじゃないのだから。
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