miyuki abe

茨城県常陸太田市鯨ヶ丘。板谷坂沿いにある実家をbanya baseとして開かれた場所にするべく動き始めました。 そんな経緯や、想いなど備忘録を兼ねて記していきます。 https://www.instagram.com/banyabase/

miyuki abe

茨城県常陸太田市鯨ヶ丘。板谷坂沿いにある実家をbanya baseとして開かれた場所にするべく動き始めました。 そんな経緯や、想いなど備忘録を兼ねて記していきます。 https://www.instagram.com/banyabase/

最近の記事

2016年のこと、たぶんこれが始まりの年。

お墓参りに行く場所、祖父母の家、親戚がいる街。 30年近くの間、私にとっての常陸太田や茨城とはそういう場所だった。父の仕事の都合で幼いうちに太田を離れ、水戸に暮らし、宇都宮へと転勤で移住。それからずっと、そういう街だった。 2016年のこと。世間的にはすっかり大人になって、転職も重ねつつ栃木に戻りランドセルを作る仕事に従事していた私は、いつものように仕事帰りに宇都宮駅ビルの中の本屋に寄り道。そこで見つけた本は茨城県北芸術祭のガイドブックだった。まさか、太田が芸術祭の舞台にな

    • 家の記憶、場所の記憶。 banya base の話。

      真弓山、山の中腹の白い部分が大理石の産地だと知らなかった私はいつも気になってあれは何だと何度も祖父に尋ねた。眼下には太田の市街地。板谷坂からスッと伸びる道、角の長山商店がカッコ良くて好きだった。いつも見える酒屋の看板、徒歩20秒の距離にあってお買い物といえばそこだったのに、いつの間にか丘から降りてしまったかわねやさん。愛媛じゃないの?といつも思っていた遠くに見えるポンジュース。 そして右手に向かってだんだん低くなる山並みの先には海がある。見えないけれどちゃんと。 この景色は

      • banya baseのこと、その前に父について②

        2週間程度で家に帰れるのではないか、という話だった。帰った後どう暮らしていくのかも課題だった。 なのになぜか、もしかしたら帰ってこられないんじゃないか、と、そう感じた。親戚のおじさんが60代前半で亡くなった時のお葬式で父があと10年でその歳かぁと妙に感慨深く呟いた時に”この人いま自分の寿命設定した?!”と感じてしまったのもあってどうにもざわざわしたのだ。そして父はまさにその年齢だった。もちろん口には出さなかったし誰にもそれは言わなかった。いや、言えるわけがなかった。 頭に

        • banya baseのこと、その前に父について①

          banya baseと最近新しい名前を得た場所で生まれ育った人=父 写真は5、6年前に一緒に奥日光へスノーシューをしに行った時のもの。懐かしい。父よ、あなたについて書きます。まぁ、いいよね。悪くは書かない、と思う。でも書かずにはやっぱり進めないような気がするから、自分のために書きます。 2年前の山の日、父は亡くなった。2018年8月11日の朝のことだった。お盆休みの始まりの日で、何という間のとり方なのだろうと思ってしまった。 亡くなる前の日。8月10日は確か金曜日で、そ

          banya baseのこと その1

          ちょっと変わった形の家がある。玄関は2階かな?いや、それとも草がボーボーな1階? 不思議な場所。右側の家との間の路地もいい。左側に見える家は立派だなぁ。 ここはどこなのか。 1977年、この真ん中の建物はそれまでの木造建築から鉄骨の建物へと改築されたようだ。施主は私の祖父、阿部政一。大正生まれの彼は戦地から生きて帰ってきた。命拾いしたストーリーは何度も聞いてちゃんと覚えている。敵から逃げるのではなく、敵に向かって這って行ったから仲間と勘違いされ撃たれずに済んだのだと何度

          banya baseのこと その1