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banya baseのこと、その前に父について①

banya baseと最近新しい名前を得た場所で生まれ育った人=父

写真は5、6年前に一緒に奥日光へスノーシューをしに行った時のもの。懐かしい。父よ、あなたについて書きます。まぁ、いいよね。悪くは書かない、と思う。でも書かずにはやっぱり進めないような気がするから、自分のために書きます。


2年前の山の日、父は亡くなった。2018年8月11日の朝のことだった。お盆休みの始まりの日で、何という間のとり方なのだろうと思ってしまった。

亡くなる前の日。8月10日は確か金曜日で、その日は週明けの13日に行う手術の説明を受けるために病院へ家族全員集合する予定になっていて私は仕事が終わってから向かうから代わりによろしくと妹に頼んでいた。夕方、急だけれどこれから手術することになったと電話がありお盆休み前のちょっと入念な掃除も早々に切り上げ、今にも雷雨になりそうな空を見ながら宇都宮へと電車へ乗り込んだ。たった2駅北上しただけで雲行きはかなり怪しくなっていた。見たことないようなおどろおどろしい空模様で明らかに北の方で凄まじい量の雨が降っている、そんな様子だった。いまも鮮明に覚えている。雷雲も雷の気配も空気も風も匂いも全て馴染みもあるものだったけれどあの日の空は凄かった。

宇都宮駅に着くと同時に大粒の雨、そして停電。程なくして復旧したけれど何ていう日なのだ!とざわざわしながらサブウェイでみんなのご飯を買い込んだ。牛丼は好きじゃないのだ。一緒に並んでいた高校生は、これから黒磯に帰るけれどあちらは停電して何にもできないからここで夕食を買って帰るのだと言っていた。停電にものすごい雷雨、栃木の夏の風物詩とはいえちょっと異様な状況。それぞれ家族のためにご飯を買い込むその場に居合わせただけの私たちだったけれど妙な連帯感があった。普段の日だったらそんな会話しなかっただろう。あの時の高校生はあの後無事に帰れたかな。大雨と雷の特別警報の通知が鳴り止まない不穏な夜だった。


…遡ること4ヶ月前。

4月のある朝、父は脳梗塞を起こした。様子がおかしくなっていたところを出勤前の母が気付いて救急車を呼んだ。既に家を出て仕事中だった私は夕方になって入院したとの連絡をもらい、ちょっとだけ早めに仕事を終わらせて病院へと向かった。日差しが温かくよく晴れた日だった。すぐ連絡したところで何にも変わらないから落ち着いてから連絡したよと、とても母らしい判断だった。病室へ入ると父はうつ伏せで足をちょっと曲げていつもと変わらぬ様子でぐうぐう寝ていた。想像していたより普通で、普段寝ている姿とあまりに変わりがなかったのでほっとして声をかけたら起きた。意識が飛んでいた時間があったから話に脈絡がなくちょっとぼけっとしていたけれど、話はできたし自分に起きたことも理解していた。前々からいろいろと幸運な人なので、今回も脳梗塞を引き起こした血栓が早々に動いてくれて何の後遺症もないという。母がいる時間で本当によかった、俺はラッキーだと調子に乗るパターンだなという感じの展開。ちなみに今回で脳梗塞は2度目だったが前回同様2週間くらいの入院で何とかなるかな?という話だった。前回は自分で気づいて救急車を呼んで病院へ向かったから大したことなかったのだと、父の中で武勇伝になっていたのだ。。

ただ、左足の爪先に巻かれた包帯だけが気になった。怪我などしていなかったはずなのだが。


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