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banya baseのこと その1
ちょっと変わった形の家がある。玄関は2階かな?いや、それとも草がボーボーな1階?
不思議な場所。右側の家との間の路地もいい。左側に見える家は立派だなぁ。
ここはどこなのか。
1977年、この真ん中の建物はそれまでの木造建築から鉄骨の建物へと改築されたようだ。施主は私の祖父、阿部政一。大正生まれの彼は戦地から生きて帰ってきた。命拾いしたストーリーは何度も聞いてちゃんと覚えている。敵から逃げるのではなく、敵に向かって這って行ったから仲間と勘違いされ撃たれずに済んだのだと何度となく話していた。子供だった私は、あまりピンと来ずにまた同じ話してるなぁなんて呑気に思っていたけれど、祖父が生還しなければ自分が存在しないことだけは理解していた。
生還して戻ってきた後のストーリーを私は詳しく知らない。福島の好間というところに住んでいたことがあることは知っている。私が生まれる直前に亡くなった祖母をとても愛していたことも知っている。手に職をと、造花を覚えるために東京へ出たり、水戸にある親戚の洋服屋を手伝ったりして生計を立てていたようだ。釣りが好きだった。そして祖父の言う”生きている石”を拾ってきては世話をするのが趣味だった。
けれどあまりにも知らない、祖父のこと。そして、それを聞ける人もほとんどいなくなってしまった。祖父の子供たち、叔母も父も既に鬼籍に入ってしまった。
そうだった、ここはどこなのかだった。
ここは茨城県常陸太田市東二町。旧市街地である鯨ヶ丘と呼ばれる丘の上。板谷稲荷のすぐ側にある眺めのいい家。私が生まれてから2歳まで過ごした場所だ。入り口は2階と1階の両方にあるけれど、メインは2階かな。表通りから板谷稲荷への参道である根道に入ると着く。崖っぷちに建つとてもとても眺めの良い家だ。壊してしまったらもう建てる事はできない、そんな家である。
父はこの家で育った。母は同じ鯨ヶ丘にある別の場所の出だ。つまり、私は鯨ヶ丘のネイティブということになるのだけれど、ここで2歳まで過ごした後は9歳まで水戸、その後父の転勤で栃木県宇都宮市へ転居してしまった。年に数回かかさずに通い続けてはいるけれど、親戚以外の知り合いを持たない余所者であることには変わりない。
そんなこの家は、2年前に父が亡くなったことで遺された私たち家族に突然、どうにかしなきゃいけない場所、として降ってきた。父の遺品を整理し、車を処分し、でもこの家だけが先延ばし。住んでいるわけでもなく、宇都宮から70キロ程離れたこの場所のことは、日々のいろいろに忙殺され、茨城のことを考えない限り思い出されることもなかった。お墓参りへ行っても家の鍵は忘れたり、本当にそんな感じだった。
でも、どうしたって思い出すのだ。お盆、法事、お彼岸、お正月。行くたびに必ず。この家どうにかしなきゃいけないんだよね、と。