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【小説】透明の家 《第六話 後編》



「……大変な思いを……してきたんだね……」


 ハルさんはガヤガヤとした店内の雰囲気には似合わない、葬式帰りみたいな顔をしている。

こういうところが癪に触るんだよなぁ、と思いながら5杯目のビールをガッと飲み干した。

「でも、どうして目立たないようにしてたのに、その……狙われたんだろう……」

「……はぁ~……、本ッッ当に分かってないなぁ」

 身体中の空気を絞り出すように、でっかいため息を吐いた。一つだけ残っていた枝豆を食べて、山積みになっている殻の上に新しい殻を慎重に積み重ねていく。

「あいつらは容姿の良し悪しじゃなく、大人しそうで文句を言えなそうな子を狙ってくんのよ。女の体を持ってるやつなら、誰でもいいわけ」

「……そんな」

「絶望したいのはこっちの方だっつーの」

 ぼそっとこぼした本音が余程効いたのか、ハルさんはそのまま黙りこくってしまった。ワイワイガヤガヤしている店内で、このテーブルだけやたら静かなのも悪目立ちすると思い、私は一人で話し続けた。

「この髪もネイルも服もヒールも、全部武装。もちろん私が好きで身につけているっていうのもあるけど。派手な格好をして堂々としていれば、中途半端な男は萎縮して寄ってこない。それでも、よほどのバカかバカみたいに自尊心の高い男は寄ってくる。だから、私は結婚したいの」

「え……」

「恋なんか興味ない。本当は結婚だってしたくない。でも男どもの視線を避けるためには『誰か別の男のものである事実』が一番効くのよ。……クソみたいな話だけどね」

 男除けとして薬指に指輪をつけたり、既婚者を装ってみたりもした。だけど、執念深い奴らは私の周囲を嗅ぎ周り、私が未婚だということが必ずどこかしらから漏れてしまう。


 私は一生誰のものにもなりたくない。


だけど、私の人生を守るためには、一刻も早く結婚という制度を利用なくてはいけない。

そのためにMaison Clairを訪れた。


 ──なのに。



「……これでもまだ、恋は素敵なものだなんて言える?」

「……」


 また、だんまりかよ。いい加減鬱陶しくなってきた。いや、最初から鬱陶しいけど。


 長々と話し続けたせいで乾いてしまった喉を潤すために、店員に向かって手を伸ばそうとした時、ハルさんが口を開いた。



「……俺も、女性から性的な目で見られるの苦手なんだ」



 どこかの席から響いてくるおっさんの笑い声が、ハルさんの言葉をところどころ掻き消す。もう一度ちゃんと聞きなおそうと思ったけど、ハルさんは顔の前で手を組み合わせ、そこに額をつけるように俯いたまま話し続けた。



「君みたいに明からさまな被害に遭ったわけではないけど、俺もね、体に触れられるだけで酷く嫌な気分になるんだ。誰かと体の関係を持ちたいとも思ったことも、誰かにそういう欲求を抱いたことも、一度もない」

「……」



 今までぼんやりとした輪郭しか見えなかった人の形をした塊に、突然色がついたような気がした。



「だからこそ、純粋な愛や恋に憧れを抱いていた。二人だけの清らかで美しい関係を築きあえる人が、どこかにいるって。でも、君の話を聞いていたらそれがなんなのか分からなくなった」


「……」



 ハルさんがパッと顔を上げる。眉毛をハの字に下げてたその顔には、言いようのない寂しさが浮かんでいた。


「……俺が追い求めていたものは幻だったのかもしれない。君が言うように、『真実の愛』なんてものは、物語の中にしかないんだよ、きっと」


 組んだ手の甲に彼の爪がググッと食い込んでいく。痛々しかった。


 私の心にほんのわずかな罪悪感が湧いてきたので、何か一言声をかけてあげようかと思ったけど、うまく言葉が出てこなかった。一人でもだもだと指先を彷徨わせていた、その時。



「私は、そうは思いません」



 立てかけてあるメニューを隔てた隣の席から、聞き覚えのある声が聞こえた。


 ハッとして二人同時に顔を向けると、そこには深海さんがこちらをじっと見据えて座っていた。


 前回会った時と同様に涼しげな顔をして微笑みを浮かべている彼女の目の前には、イカのワタ焼きとモツ煮、さらに下四分の一ほどがステンレスで覆われているホットグラスが、空の状態で並んでいた。



「申し訳ございません。盗み聞きをするつもりはなかったのですが、ここで食事をしておりましたところ、お二人がお隣の席にいらっしゃったので、つい」

「……ということは、本当に、たまたま?」

「はい。たまたまの偶然でございます」



 彼女の席に店員が新しいグラスと料理を運んできた。

 芋焼酎のお湯割りと、サバの押し寿司、フライの盛り合わせ、羽つきの餃子に、巨大な縞ほっけ。極め付けには海鮮丼。しかも大盛り。

「あ、他にお連れの人がいるんですか?」

「いえ、私一人です」

 彼女はあっけらかんと答え、「本日はオフなのです」と湯気が立ち昇るグラスに口をつけながら、ちびっと焼酎を啜った。大衆居酒屋の中で爆食しながら焼酎を啜っているのに、こんなに上品さが隠しきれない人も珍しい。私は何か奇妙な生き物を発見したように、彼女の挙動から目が離せなくなってしまった。



「ところで先ほどのお話ですが……」



 作り物のように綺麗に並んだ白い歯が、揚げたてのアジフライの衣にサクッと突き立てられる。食べかすひとつついていない唇で何度が咀嚼した後、深海さんがハルさんに目を向けた。



「『真実の愛』というものはあると、私は思います」


 いつものようにニュッと顔の筋肉を使って歪めた目ではなかった。むしろ逆に、顔中の余計な力を抜いたような、優しい表情だった。

 まあ、その目線が目の前に並んでいる料理に向けられていたので、ただ単にお腹が空いていただけかもしれないけれども。


「……そうですかね」


 朗らかな彼女とは反対に、今まさに信じていたものに裏切られましたとでもいいたげな、陰鬱な顔をしてハルさんが答える。


「はい。ただ、『真実の愛』の形はひとつだけだとは限らないのではないかと思うのです。例えば、先ほどのナツ様のおはなし」

「え?」


 突然話を振られて、どきりと心臓が飛び跳ねた。


「大変な思いをされていたナツ様に対してご両親が心を痛め、様々な対策を取ってくれたのは『親の愛』だと思います。思春期真っ盛りの弟様が姉であるナツ様のために毎日登下校を共にしてくれたのは『姉弟の愛』。ナツ様のご容姿の変貌に怯むことなく仲良くし続けてくれたご友人方からは『友愛』を。いずれも、皆様がナツ様を想い慕っていたからこそ生まれた『真実の愛』なのではないでしょうか」


 深海さんはイカのゲソをかじりながら、臆面もなく愛を語った。
安い大衆酒場の一角で品のある女性がイカゲソを食べながら愛の定義について語る。なんともちぐはぐで、トンチンカンで、不思議な雰囲気だった。
だから私もつい、本音を引き出されてしまった。


「……私だって、みんなが好き。愛してるって言える」


 昔、告白してきた男から「お前は愛を知らない冷たい女だ」と言われたことを思い出した。

 その時はもしかしたら本当にそうなのかもしれないと思って、反論することができなかった。

 私は人としてどこか『欠けている』のかもしれない、と。

でも、そんなことはなかった。

今ならあの男に対して、私は胸を張って堂々と言い切ることができる。



「私は恋愛感情も性欲もないけど、愛がなんだか知ってるよ。『思いやり』だよ。相手を大切にしたいって気持ち。それが『愛』でしょ」


 それ以外の愛を、私は知らない。

 知らなくてもいいと思った。

 知れないものを追い求めるよりも、いま私の手元にあるこの感情を大切にしたい。私はそれでいいんだと、私自身が許してくれたような気がした。

誰でもない、私自身が。


 深海さんは目尻を垂れ下げたような目で私を見つめ、ゆっくりと小さく頷いた。そしてクイッとグラスを傾けて焼酎を飲み干し、ハルさんに向き直った。


「ハル様。ハル様の求めているものは『男女間の恋愛における真実の愛』ですか?それとも『他者との揺るぎない絆』ですか?」

 責めるわけでも褒める訳でもない、ただただ淡々とした、いつもの口調だった。


「……」

 ハルさんははくはくと口を動かして、答えあぐねている。

「申し訳ございません。立ち入ったことをお聞きしてしまいました」

 彼の回答を待たずに、深海さんが深々と頭を下げた。

 いつの間にか彼女の目の前にあった大量の料理は、全て平らげられていた。

「お詫びと言ってはなんですが、来月、Maison Clairにてクリスマスバーティーを開催いたします。もしよろしければ、お越しください」

 陶器のように白く細長い指先が、近くにあった箸入れに伸びる。

 そこから箸を一膳抜き取り、おもむろに箸を引き抜くと、カバンから小さなシャチハタを取り出して、箸袋の真ん中にポンッと押印した。そして折り目もつけずに、ビリッと袋の真ん中を裂くように手でちぎった。


「こちら、クリスマスパーティーのチケットでございます。こちらは割印がわりに押しておきましたので、ぜひお越しください」


 こんなに雑なクリスマスパーティーのチケットは初めてもらった。
子供の作るチケットだってもう少しちゃんとしているはずだ。

 私はなんだか無性に面白くなってしまって、居酒屋の電話番号と店名、そして深海さんのハンコが半分だけ押されたこの十センチにも満たない箸袋を、まるで魔法のチケットのように店の照明に透かして眺めていた。


「では、当日、お会いできることを楽しみにしております」

「あ、あの……!俺たち、接触禁止だったのでは?」

「『偶然』、については私どもも管理できませんので」


 またいつもの涼やかな微笑みを浮かべて、深海さんはお手本のように綺麗なお辞儀をすると、颯爽とテーブルを後にした。どことなく、フワフワしている彼女の足取りを見つめながら、


「……もしかして、深海さん、酔ってる?」


と、ハルさんが小さな声で語りかけてきた。


「あ、私もそれ、思った」


 私たちは手元の荒々しく破かれた箸袋に目を落として苦笑しあった。

 開いた自動ドアの向こう側には雨で濡れてさらにギラつきを増した街が広がっている。だけど、彼女の周りの空気だけは白く発光しているように見えた。

 私たち二人は、賑やかな夜の街に消えていく彼女の真っ直ぐな背中を、騒がしい店内からじっと見送っていた。

(続)



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