僕にとっての走るということ
最近、週末にランニングをしている。
村上春樹の小説に感化されたわけでも、お正月の箱根駅伝を見て感動したからというわけでもなく、ただ、淡々と粛々と、寒空の下、今日も硬いアスファルトに歩を進める。まるで宗教行事のごとく厳かに。
最近気付いたのだけれど、ランニングを趣味としている人には、大きく分けて2つのタイプがいるように思う。肉体的な達成感を求める人と、精神的な達成感を求める人。
前者は、体重を減らしたいだとか、体力を付けたい、もっと速く走りたい、マラソン大会に出場してタイムを狙いたいなど、視認できる効果を求める人。
一方、後者は、走ることによって、精神を安定させたい、ストレスを解消したいなど、視認できない効果を求める人。
僕は、どちらかというと、後者に属すると自覚している。走ることによって、日常と切り離された時間を過ごすことができる。
不思議なもので、日常生活で考えていることと、走っている時に考えることは、思考の種類が違うように感じる。
走っている時に考えていることは、走っている時にしか考えられない。
日常生活で思考を巡らせる対象が、日々の仕事や食事など、目の前のことだとすると、走っている時は、その対象が半歩先になるイメージだ。
つまりは、ぼんやりとした未来や、それに付随する様々な事象に思いを巡らせる。
思いを巡らせたところで、何がどうなるわけでもなく、ただ、それだけなのだけれど。
それでも、僕が走ることを継続しているのは、走っている時に感じる、日常生活との思考の差が、本能的に心地良いと感じているからなのだろう。
もっと言えば、半歩先の未来を想像する時間が、心のどこかで "必要" だと感じているのかもしれない。
走っている時、おぼろげに、ぼんやりと夢想する未来は、総じて明るく温かい。
オレンジや、淡いピンクの陽炎が、こっちへ来いとばかりに、ゆらゆらと揺らめいている。
でも、走り終えて日常生活に戻った途端、その陽炎は視界から消え去り、目の前がクリアになる。つまりは、現実に引き戻される。
それでも、少しの間でも、明るく温かい未来を感じたくて、それを本当のものにしたくて、僕は、これからも走り続ける。
走り続けた先に、きっと楽しいことが待っている気がする。いや、待っているはずだ。
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