一流の教師??
はじめに
昨日、他のプログラムの授業にお邪魔して、中央省庁に勤める方のお話を聞きました。学び手側の視点に立ち、探究をベースとした研修へ転換していくという行政側の意識の変容過程を知れたのが大変興味深かったです。貴重な機会をいただけたことに感謝です。
話が進む中で講師の先生から3つの資料が配られました。そのうちの1つに2ページほど大村はま『新編教えるということ』からの抜粋部分がありました。
「仏様の指」
資料には大村はま先生が先輩の先生から「仏様の指」というお話を聞いて、感銘を受けた様子が示されています。
「仏様の指」の内容はざっと次のようなものです。
「ある男が荷物をいっぱい抱えて車(荷車)を引いていた。車がぬかるみにはまり動かなくなってしまった。ぬかるみから抜け出すために男は様々努力するがどうしても抜けない。その一部始終を見ていた仏様が指でそっと車に触れると車はぬかるみから抜け出した。男は車を引いて行ってしまった」
この資料の意図するところは「教師が何でもかんでも子供にやってあげるのではなく、子供が自ら学び、自ら達成感を得るられるようになること。また、教師が出過ぎることなくそっと(見えないように)支援していくこと(何もしないではない)が大切だ」といったことを示してくださっていたのだと思います。学びの相似形という言葉で考えれば教員の学び(研修)も同じようになっていく必要があるということでしょう。
一流の教師って?
家に帰り、本棚から『新編教えるということ』を取り出しパラパラめくっていました。そうすると今日配られた資料と同じ箇所に赤の書き込みを見つけました。そこには「二流、三流って誰が決めるの?」「一流の要因は他に何かあるのか」といったものでした。さらにもう一つは「言い方注意」でした。
先ほどの「仏様の指」の話をした後に、先輩の先生は
続けて、
と述べていたようです。いい話のように思いますが、改めて考えてみると、
①生徒に慕われている一流の教師はいないのか?
②教師の一流を決める要因はいわゆる仏様の指のような支援ができるか否かだけなのか。二流、三流を規定する要因は明らかになっているのか?
③仏様の指の話をする前に先輩の先生は大村はまに対して「どうだ、大村さんは生徒に好かれているか?」と尋ね、大村はまが返答に困り「嫌われてはいません」と答えた後に「そう遠慮しなくてもいい、きっと好かれているだろう。学校中に慕われているに違いない」とやりとりしている。話の流れでいくと、大村はまにまだまだ二流、三流だよと言うための前振りなのではないか?何だか失礼な感じがするぞ?(そういう時代なのかな?)
そんな穿った感想をもっていたのだと思います。正直この感想は今もそこまで大きくは変わっていないように思います。
答えがありそうで多分ない
教師の一流、二流、三流といったものを規定することは難しいように思います。一流になるテストがあるわけでもありません。管理職選考に合格することでもないように思います。その一方で、一流の先生という表現がピッタリな方もいるように思います。あくまで感覚ですが。答えは出ませんが、この点に関して他の先生と対話したいな〜と感じています。こういった対話を行うことで、他者の考えに触れ、自分自身の実践を振り返り、新たな気づきを得ることも多くあるように思うのです。もしかしたらこれこそが新しい研修のあり方なのでは!?と感じています。
唐突ですが、昔の日本酒は特級酒、一級酒、二級酒のように等級づけされていました。分け方の基準は非常に曖昧で、特級と一級の違いがわからない、一級より二級の方が美味しいといったこともあったようです。等級が「消費者が飲んだときの美味しさ」とは一致していなかった側面があるということです。これは教育にも当てはまるのではないかなと思います。
何が言いたいかまどろっこしくなりましたが、一流の教師を定義するのは難しい。というよりも不可能に近いということ。仮に一流、二流、三流を規定する要因があったとしても二級や三級の先生がダメだというわけではないし、二級や三級の先生とによって救われる子供がいるかもしれないということ。だから教育はチームで行なっていく必要がある・・・といったことです。
おわりに
まとまりのない文章になってしまいましたが個人的には少しスッキリしています。
今日は長女の運動会です。子供達も先生方も無理せず、楽しんでほしいと願っています!
今日もご覧いただきありがとうございました!みなさん良い週末をお過ごしください🌸