『乙女の教室』
私が『乙女の教室』を手に取ったのは、
という帯の言葉に引っかかったからだ。
私は"乙女"という言葉に、「恋する乙女」や「夢見る乙女」のような、未熟な可愛らしさや、メルヘンさというイメージを持っており、"乙女"を自ら名乗るのは小っ恥ずかしく、自分には見合わない言葉のように思っている。その影響もあり、もし友達に「あんた恋する乙女じゃん〜」などと言われたら、からかわれているような恥ずかしい気持ちになるだろう。そもそも"乙女"という言葉を使わない私は"今こそ乙女として生きること"を勧められたことに興味を持ちつつも、構えていた。
そんな思いで『乙女の教室』を開き、冒頭の「乙女のすすめ」を読むと、早速"乙女"に対する解釈が私とは丸っきり違っていたことに驚いた。
作中に書かれた"乙女"の解釈を引用する。
この解釈を読んだ時、私の"乙女"の使い方が全く"乙"でないことが判明した。そして"乙女"が"なんだかいい女"という意味ならば、私も"乙女"を目指してみようと思うようになった。こうして早くも"乙女"に対する捉え方が変わった。
この本では、乙女の美徳として24の課題が出題される。課題は決して難しいものではなく、普段やっていることの意識を変える課題から、悩む気持ちを晴れやかにする考え方まで、背筋が伸び、美しく歩いて行ける心の持ちようが書かれている。私は、この24の課題の中で22番目の課題が最も気になった。
22番目の課題"優しさを連鎖させましょう"を一部引用する。
この課題を読んで、私自身は優しいだろうかと考えてみた。すると、純粋な優しさ以外の優しさをいくつか思い出した。それは「私はそこまで心広くないよ」という思いを持ちながら、優しくしていたり、「どうして私が」と思いながら優しくする様子だ。そう考えると、私は本能的というより、その場の空気を読んで優しく接することも多かったように思う。だけど、そうした思いで人に優しくしていても、やった後にはドヤッと心が充実し、胸を張っていられるように思うし、そんな思いでも、受け取った人は優しさを返してくれていたように思う。私は、優しくすることに損は一つもないことに気付いた。そして、まだまだ未熟な乙女である私は、この課題と向き合うことで"優しさ"が人から人へ繋がっていることを知ることができた。"優しくすること"が良いことだとわかっていても、どんな影響があり、自分にはどう変化があるのかを知ることは、とても大切なことだったと思う。
私はこの本を読んで、意識が変わる、何気ない行動に対して意味を持つ、といった自身の変化があった。それも全て、著者である美輪明宏さんが時には厳しくはっきりと、時には寄り添って、"乙女"へ導いてくれたからだと理解している。私はまだまだ乙女には程遠い人間であるが、背筋の伸びた"乙女"になることを、目指し、今こそ乙女の美徳を身につけたいと思う。
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