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今夜、「なんでもないあかるさ」の下で

どうしようもない気持ちで自分の部屋に帰って来て、ふとベッドの枕元に置いてある本のタイトルが目についた。『抱きしめられたい。』、糸井重里さんの「小さいことばシリーズ」のうちのひとつである。布地のような表紙の柔らかさと、つぶやきのようなフォントの穏やかさが、私の手を引き寄せた。ベッドにからだを投げ出して、ぱらぱらとページをめくる。

どのことばも優しく、また易しく、それなのにぴったりとした量の意味を滲ませていることに安心する。言葉よりも先に意味が染みてくる。一方で中には、一度視線を滑らせただけではよく分からないものもある。それもまた、安心する。意味を考える余地がある言葉に触れているということ、また自分自身が、その言葉を理解したいと欲して頭を働かせていることに、ほっと息が漏れる。それくらいには、ひりひりしている。そんなひりひりには言葉が癒しとして十分に働くことを、もう何度も確かめたことのあるその事実を、ここにきてまた、初めて知るように知る。

そして、あるいちページでそれは、大きくうねるように確信へと変わる。

かなしいという気持ちと、くやしいという気持ちと、
おそろしいという気持ちとが、渦巻いていく。
暴力は効果があると思われたくない。
なんでもないあかるさを、反対側にとにかく置いておく。
(糸井重里『抱きしめられたい。』二八〇ページより)

かなしいという気持ちと、くやしいという気持ちと、おそろしいという気持ちとが、渦巻いていく。暴力は効果があると思われたくない。なんでもないあかるさを、反対側にとにかく置いておく。と、ついそっくりそのまま復唱したくなるほど、このことばがほとんど実体を持って頭に届いた。

悲しさ、悔しさ、恐れ。言葉でそう区切るのは簡単だけれど、実際のところそれらは互いの熱で輪郭を融かし合って、名前を持たない、どろどろと赤黒い何かになって渦を巻く。その渦は、私たち(という言い方がそもそも暴力的であるけれど)の連れている弱さと共振する。呑み込まれたい、と願うその心は圧倒的に強さを求めていて、その震えが暴力を呼ぶ。何も、物理的な暴力ではない。誰かの顔面を殴るとか、何かを蹴り壊すとか、あるいは「言葉の暴力」とかいうものとも違って、もっと根源的な、ひととひとのあいだの、その〈あいだ〉そのものに仕掛けられた爆弾のような。その爆弾には効果がある。だって間違いなく傷つく。その傷を効果と呼ぶなら、効果がある、ということになる。

しかし、そうは認めたくない。というか、認めてはならない。

ここまで読んで、私は暴力を糾弾したいわけじゃないな、ということを思った。なぜなら、ともすると私が、まさにその暴力を行使しかねないと思ったからだ。ここで否定されようとしている暴力は、誰でもなくまず私の中にある、と思った。もちろん、だから私が危ない人物だということではなくて、誰かを傷つけかねないという事実がそれくらいありふれている、ということだ。糾弾するその前にまず自らの胸に手を置く必要があるから、こそ。

「なんでもないあかるさ」が必要なのだ。反対側に。不思議な表現である。反対側に。なんの。どこの。何を隔てて。何を基点に。分からない。なんでもないあかるさ、だからである。なんでもないのだ。正義とか善とか、希望とか未来とか、あるいは神様とか、そういうことではない、なんでもないあかるさ。何にも依らない、だけど何かに対している、そして何にも吸い込まれていくことのない、あかるさ。なんじゃそりゃ、と思った。だけど涙が出た。私はそのあかるさを知っている、と感じた。たわいもない、だけど決してくだらないとは言いたくない、ちいさくて尊い、あかるさ。光、でも太陽、でもなく、あかるさ。

というようなことを、このいちページが目に入ったときに、これっばかりは光のような速さで、考えたのだった。

目次を見るとこの文章には、パリのテロ、というタイトルがついている。調べるとこの小さなことばが、2015年の11月にツイートされたものだと分かる。

日付から、あのパリ同時多発テロ事件に言及したものなのだろう。驚いた。ある特定の事件へのことばが、文脈を離れてこれだけ普遍的になることに、である。それが書きことばの力でもあり、脆さでもある。そして、それだけ暴力というものが、年月を経ても、国境を越えても、向き合わざるをえないものだということを、淡々と知った。

なんでもないあかるさ。置いておきたい。連れていたい。纏っていたい。薄暗い部屋の隅に、胸ポケットの中に、肌寒い日の半袖シャツの上に。できるだろうか。できるひとでいたい。なんでもなくあかるいひとで、いたい。


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