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苦しみぬいて悟る
自分の目から、あんなことをさしておいては悪いと思う時でも、先方がひたすらその方に心が向いていて、少々意見したくらいのことでは、馬の耳に風ほどにも思っていないというような時には、しばらく黙ってその人の思う通りにさしておくより仕方がない。やがて二進も三進もゆかなくなると、
はじめて目がさめてなるほどと悟ってくるものである。
誰もしたいしたいと思っていることを、せずに止めるということは、なんとなしに残念に思うものであるから、思う通りに一応やらしてみて、心から悟る時を待つより仕方がない。
何やかやをやってはしくじり、しくじりてはまた考え直すというふうに、自分で苦しみぬいた揚句に、世の中を悟った人はほんとうだ。
ただ、その人の性来によって、小さいことから直ぐ悟りに入る人と、目にもの見て始めてギャフンとまいる人との差異があるだけだ。
人の思惑を気にするな
先入主ほど邪魔になるものはない。人に対しても物に対しても、つねにその先入主を除いて、公平な目で
見るのでなくては、随分見そこなうことが多い。
○
何事もスラスラと自然にできて来るのが本物だ。
○
自分はえらいとか、何が上手いとか得意であるとかなどということを思っていてはならぬ。また自分はつまらぬとか、バカじゃとか無能じゃとか思い込んでいてもならぬ。
そのどちらにせよ、よくない先入主である。
何事にせよ、人生ちょっとのことを鼻にかけたがるものである。自然にスラスラとその時その時の気分にしたがって、赤児のような心になって物事をせねばならぬ。報酬めあてや、人にえらく見せたいなどいうがためにする動作は、外見いかに立派でも、その本質は不純きわまるものである。
他家へみやげを持参するというような場合などでも、本心では惜しみ心でおりながら、先方へ気前をみせるためにわざわざ気張って、身分不相応な物を持って行くなどということは悪いことだ。第一、
そのみやげ品に味がない。
心を篭めた物と、いやいや出す物とには、たしかに、食べ物なら、味の相違はある。
人の思惑を小心翼々と気にかけてばかりいては、この世に自分はなくなってしまう。人はどう思おうと、自分は自分だけのことをしたらよい。
『信仰覚書』第八巻 苦しみぬいて悟る