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自分で自分を研究せよ

一切はかんながらだ。

人を悪く思うのは、自分が悪いからだ。天地をせまく感ずるのは、自己が狭いからだ。

いろいろと気持が変っておもしろい。自分で自分をジッと見つめていると実に面白い。たまらないほど重苦しい気持の時も、そう長くはつづかない。大抵、一昼夜たらずで、また次の気持にうつる。自分が重苦しい時には、何を見ても重苦しい。自分が小さく悲しく口惜しい時には、あたりの一切が小さく悲しく口惜しい。自分の内界だけの世界だということをシミジミと感じる。

気持の悪いときに重要な仕事をしてはならぬ。一生けんめい気ばって、却って不結果をきたすだけだ。

こういう時には、仕事はすべて控え目にしえ、つとめて神前に出るように、朝晩のお礼に出るとか、神書を読むとか写すとか、瞑目して鎮魂するとかいうふうのことを忘れぬようにせねばならぬ。

自分でよく自分を知っておらぬ。一朝、悪い霊流に触れた場合、自分がしっかりしておらぬと、つい、その霊流にまき込まれてしまって、ふたたび基の自分に返ることがむずかしいことになりがちなのだ。修業の間は、どんなことがあっても腹を立ててはならぬ。すべて有難いとし、神意と解し、相手の行動を善意にとらねばならぬ。よしや、相手は悪意でしたことでも、こちらで善意に解すれば、すなわち善事となるのである。これと反対に、相手は善意でしたことでも、こちらにおいて悪くとれば、すなわち、悪事となってしまうのである。

これに反して、天国的の気分の時、すなわち、なんとなく心うれしく、仕事もドンドンできるという時には、思ったを躊墸なくなしたらよいのだ。この時、副守護神にわずらわされて、引っ込み思案におちいってはならぬ。

人には誰にでも、天国的の気分の時と地獄的の気分のとがある。だから、常によく自分で自分を研究して、きょうは大いにやるべき日だとか、きょうは注意すべき日だとかいうふうに、よく心得ておらねばならぬ。

まだ他人に対しても、いまこの人はどれくらいの霊格の時であるということをよく知って、相手相応につき合わねばならぬ。また、今は地獄の修業であるが、この人はやがて、どれだけの正覚を得る人であるとか、今はちょっと威張ってござるが、大体において、真価はこれくらいのものだとかいうふうのことをよく知って、人を万事大目にみ、適当に取扱うようにせねばならぬ。

真の自分を知らぬから、人は直ぐにうぬぼれたり、まあ何でもないことに狼狽えたり、しょげ返ったりするのである。

この世に生まれて、何が大事かといって、自分を知ることほど大事はあるまい。

出口日出麿著、『信仰覚書』

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