【人生ノート317】人間は毎日すこしずつでも突破してゆき、省みて、去年よりは今年、昨日よりは今日の方が多少よくなっておる。
信仰生活の意義②
便利な文明の利器も使いようによっては、人の真性を堕落さすことになりやすく、名刀も使いようによっては善人を切る兇器となりやすいのでありまして、人間に万物の霊長たる資格を神さまが
お与えになっているだけに、それをよく自覚せんというと、この世に生きている甲斐がないことになって済んでしまう。いやそれどころか、かえって鳥や獣よりも劣った一生をおわってしまいがちなのであります。で、私は突破向上ということ、いまの境遇から一段脱け出る、これを始終工夫し努力し、一生懸命にならねばならぬーーと、こう考えております。
しかも人間の一生涯において、格段的突破向上の関門は入信であります。神を知ること、永遠の光をつかむことであります。信仰をほんとうにつかむ時は、いままでの物質的な、外的な生涯、生活、考え方から急激に飛躍して、一段高く飛びあがった霊的な永遠性というもの、無限正というものがその人の環境に鍬和手まいります。
神にまかせきった安心というもの、またそこから出発して、自分のベストを尽くそうという、ほんとうの立命というものを得てまいります。今まではわずか人生五十年の自分であり、五尺の自分であったのが、今度は永遠の自分であり、世界と一つの自分になってまいります。神さまの家来であり、宇宙の細胞である自分になってまいります。それだけ一遍に飛躍することができ、向上することができ、悟ることができます。ここが大事なところであります。
一芸一能を修得するのにも、はじは何もわからぬ。それを突破して多少人の真似をしてゆこうとする時代が過ぎると、いくぶん要領がわかる。それがすむと、今度は自分で多少慢心気が出たり、わかったように思う。つぎに行きつまってくる。行きつまった時にはじめて反省するようになり、ほんとうに深い工夫をするようになる。そこを突破したときに、ほんとうの呼吸とか神髄とかいうものをはじめてつかむーーという順序になるのであります。なんでも次々に時機がある。季節にも春夏秋冬があって、それが序をおうて突破向上してゆくところに一年の完成があります。
それと同時に、人生においても得意な時もあれば失意な時もある。自分でなんでも出来るように思うている時もあれば、また逆に人間の利器はごく貧弱でつまらぬように思う時もあります。そういうふうに、次々に時機をへて段々より高くなってゆくのであります。その中でさっき申しました、早く信仰を得るか得ないかということが、いちばんの突破向上の岐れ目であり、境界線(さかいめ)であります。
何が大事であるというて、これほど人間にとって大事なことはないのであります。ここをパッと突破する、飛びあがる、ほんとうに信じきる境地へゆくというには簡単ではゆかない、普通の気持ちではいけない。理屈では簡単であるかも知れませんが、実際問題としては、これは生死を賭けた問題でありまして、自分の全霊全身をぶっつけて、つかみ出して、そして神さまと向かい合ってゆく、その道を素っ裸体で走ってゆく賢明な気持ちがなければならないのであります。そうでなければ、真の信仰は得られるものではありません。
信仰を、はじめ、得ようとするその当初の気持ちが、ごくざっくばらんであり無造作で、何でもなしに多少真似をしておれば、おがんでおればわかってくるよい思っておると間違いであります。それでも長いことやっておったり、それまでにいろいろな目に遭わされたり、多少死に目に遭ったりした人は早くわかりますが、普通、そうはゆかない。
それで突破には、この真剣味ということーーこれがいちばん大事であります。で、人間は毎日すこしずつでも突破してゆき、省みて、去年よりは今年、昨日よりは今日の方が多少よくなっておる。
その自覚、喜びを持ちつつゆくという生活でなければならぬのであります。それにはどうしても真剣味が必要でありまして、この真剣味のないところには、百年ついやしたところで、同じ所をグルグルまわっているようなものでありまして、なんら得るところはないのであります。で、真剣になって為しきる人は幸福であります。物事を外的に成功するとか、せんとかいうことは問題ではありません。真剣な人は失敗しても損をしても、人に叩かれても、ああいう時はこうすべきであったと省みることによって、一つ霊的な財産を殖やしている。真剣でない人は僥倖に成功しても、比較的なんとも思わぬ、感慨がない、有難味を知らぬ。失敗してもあわてるだけで腹に沁まない。そのことからの教訓を得ることがすくない。で、ぜひ皆さん、信仰をすでに得られている人もあり、なお、これから得られようと思われておる人もあると思いますが、真剣に祈ること、真剣に為ることが大切であります。
『信仰叢話』出口日出麿著