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真心は霊に通じる

追善供養の必要

また、霊が中有界に迷っているあいだは、現界との関係が非常に密接であります。しじゅう現界のことを考えて「子供はどうなっているだろう。あの事件はどうなっただろう」と思うている。何か気にかかることを残している人は、しじゅう現界に出入りしている。俗に「新霊は四十九日家の棟にいる」というのも、この辺の消息をいったものです。こちらから思うことによっても霊線が通じるから、それを通じて人に憑ってくることもある。死者の夢を見るのも、こちらからか向こうからか、あるいは相互の思いが通じるからである。それで、中有界にいる間はよくお祀つりしてあげ、拝んであげるということが大事で、一生懸命に善いところ行くように力づけてあげ、お供えしてあげるということによって、うれしい良い波が、真心の波がその人にゆくのである。本気になって、その人に向かって「早く神さまのお神徳(かげ)でいい所へ行け」といって力をつける祝詞の声などが、バーッと大きな力となってゆくからして、この人は非常にうれしい気持ちをもつことができる。いたずらに悲しむ波は、これと反対に霊界人を苦しめるのであります。

またお供えというものは、なんで必要であるかといいますれば、霊界へゆけば、物質体ではなしにガス体のような体になっているだからして、こちらから「飯を食え、お茶を飲め」といってお供えせんでもよさそうなものだとお思いになるかもしれませんが、これは一を知って二を知らん考えである。なぜかというと、そこにきれいに飾ってくれてあり、好きなものをお供えしてあれば、

そこにこもっている遺族の真心はかならず受けるのである。霊体一致たらねば、ただ念ずるだけではまだ半で、それを形式に現わしてはじめてよう通ずるのである。いわんや霊界人といえども、物質の精気、霊気というものは摂り、または喫するにおいておやである。真心をもって、米やらその他の物をお供えすれば、非常にありがたく感じる。

真心がそのご飯なり、お水なりにはいっている。想念というものがはいるから、その物質の分子電子の状態を変えて、、きれいな美しいものにしてあるから非常によろこんで食べる。「勝手に食え、めんどうくさい」という気持ちで供(あ)げたものは、霊の方でも食いにくいし、食べてもあまりうまくない。そのものの精気が、霊気がきれいではない。「どうぞおあがり下さい」といって、真心をこめて供(あ)げたものは、そこから出る霊気の香りがあり、かがやかしい色があるものである。

また「そんなにたくさんお供えしても食べきれまい」とお思いになるかも知れませんが、そうではない。たとえ自分が食べきれなくとも、欲しいと思わんでも、自分のために本気で真心をこめてお供えしてくれたものは非常にうれしいし、その精気を他人にわけてやることもできる。また中には、

罪によって水も飲めん、飯も食えん(霊界でも霊的飲食はある)というような苦しみの状態にあるものもいる。こういう状態の人でも、こっちから本気で供えたものは多少通じて神さまもお許しになり、少しずつでも頂けるようになるものであります。

それから、追善ということがありますが、その人が亡くなってから、その人のためにしてやることを追善というのであるが、その人になり代わって慈善をしたり、よいことをしたり、のりとの一つも神さまに奏げたりすることは、またその霊が非常によろこぶものである。

照るも降るもみな神ごころ偶然と

思ふは因果を知らぬ故なり

造られし人の身をもて皇神の

し玉ふわざをいかにとやする

造られし人の身なれば皇神の

まけのまにまにゆくぞよろしき

『信仰叢話』、出口日出麿著

お示しメモ2

これまでのお示し


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