本当の幸福を求める心
人生はお互いに思い思われて、なつかしく、ありがたく感じ合うところに本当の幸福がある。
とにかく、人間は真にあいゆるした一人を欲しているものだ。
その一人がないということは寂しいに違いない。
ある人はいう。
「自己が愛している者のため、あるいは、愛されていと思う者のために働くことほど満足はない」と。
そうであろう。またいう、
「心から、自己の成功をよろこんでくれる者を持たず、また、喜ばしたいと思う者を持たぬことほど、淋しく、たよりないことはない。
こうした張り合いのない、気のぬけたような生を送っている自分を諒解してください」と。
私は、よく、その人の心持ちがわかる。
人間というものは実に勝手なもので、病気のときは「病気くらい悪いものはない、病気さえなおったら、どんな仕事でも不平をいわずに働こう。達者になったら、これに越したことはない」と決心していながら、いざ達者になると、もう前のことはすっかり忘れてしまって、何かにつけて不平不満ばかり言っているのである。
われわれは壮健であり、仕事をしていることほど、この世に幸福はないのである。
与えようとする心はあっても、受けようとする他の心がなかったら、ここに授受の関係はおこらぬ。
甲は乙を想っても、乙が甲を想わなかったら、ここに完全な愛の実はむすばない。
対象によって保たれている天地である。その対象が、ますます完全に、その役目を果たすことにおいてのみ、この世はますます、より幸福になってくるのだ。
『生きがいの探求』出口日出麿著