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【人生ノート316】現在自分の立っている立場から、少しずつ広がってゆき、一段ずつ高く上ってゆかねば生存に意義がありません。
信仰生活の意義①
いっさいの物を見ておりますと、いつも同じことを繰り返すようで、また一面、変わっているようであります。花でも年々おなじ花が咲いているようであるけれども、去年の花よりは今年の花が大きく咲くとか、たくさん咲くとか、あるいは樹木はそれだけ太っているとか、枝が栄えているとか、その辺の気候も同じようであるが、どこか変わっているとかーーつまり、それだけ進展しているのであります。
人間は、どうしても、現在自分の立っている立場から、少しずつ広がってゆき、一段ずつ高く上ってゆかねば生存に意義がありません。目に見えることでも、目に見えぬ心の方面も、より以上そうでなくてはならぬのであります。
自然に放っておいても、草や木でも年々太ってゆき、多少はよくなっている。獣でも生まれた時よりだんだん自然に智慧づいてゆくのであります。ところが人間だけは自発的に、自主的に自分でこうやろう、こうでなくちゃならぬという意気込みがもてるので、ほかの動植物が向上するよりは、その人の考え次第、その人の努力次第でどんどん進んでゆき、悟ってゆき、ほんとうの宝をつんでゆくことができるのであります。これが大事なところでありまして、物事は放っておいても悪いものはついに衰亡してゆき、よい物はだんだん繁栄してゆく、これは天地の真理であります。
その環境に、その時代の天地の真理に合うているものはかならず栄えるが、それに合わぬものはだんだん衰えてゆく。これはきまった神律でありますが、人間には自分でちゃんとその是非を見てとり、あるいは自分を省み、どうしたらいいか、どうせねばならぬかと考えるだけの分別力を神さまから与えられておるのであります。ここが万物の霊長たるところであります。
それで人間は、このことをよく自覚して、どうしても自発的に始終ものに接し、事にあたり、その環境を、また自分というものを、自分の癖を始終かえりみて、それを突破し克服して、少しずつでも、昨日よりは今日の自分はよくなっており、昨日よりは今日の自分の霊的な財産が殖えている、その自覚、自信がない生活は生きておっても意義がないのであります。獣や草木よりも劣る障害にすぎんのであります。
人間は自主的な意志が与えられているだけに、悪くするとこの世へきて反省せず、辛抱せず努力せなかったなら、ついに生まれた時よりかえって悪くなって死ぬことが多い。草木、禽獣(とりけだもの)、虫、魚等々は、どうなりこうなり自分が伸びてゆき、あるいは食うてゆくことができるならば、それ以上不服がないのでありますが、人間だけは欲にかぎりがない。で、うっかりすると動物よりも、草木よりも劣った人間ができやすいのでありまして、いまの世のなかが悪くなっているのは、一つはそうなのであるからであります。
『信仰叢話』出口日出麿著