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不健康は身魂のけがれ
他人がこう思いはせぬか、こう言いはせぬかと、他人が自分を悪く思わんことのみを慮(おもんばか)って、自己をいつわって偽善をしている場合が実に多い。
他人の目にはたとえ悪に映じようとも、真の自己に住することこそ、もっとも神のみ旨にかなえるのである。くだらぬことに心を労して、徹頭徹尾、偽善の生活におわる人ほど、世にあわれなものはない。
人間がどれほど、日常、ただ利己一ぺんのために心を労しているかということは、吾とわが身に省みてみたなら誰でもうなずける。ちょっとした物音にもギクッとするのも、要するに「自分に危害がせまったのではないか」と思うからである。ちょっとした人の話にも、そねんだり恨んだりするのも
「あの人は自分にあてつけて、あんな話をした」とか、「あいつは俺を見さげている」とか、まあ大抵はこんな他愛もないことにもとづいているのだ。たあいもないことと今わたしは言ったが、このたあいもないことが、如何にのべつに我々のあいだに起こっているかということは、けだし、思いなかばに過ぐる事実である。我々はあくまでも、われとわが身に省みて、わが魂の底から研きあげ清めあげることに努力せねばならぬ。表面をつくろうということにのみ苦心して、内心から清浄にするということに努力せぬ現代人のやり方ほど間違っているものはない。
小人にかぎって、表面のみをかざることに汲々とし、少しでも自己より勝れたるもののあることを忌みきらい、自己のために働き、自己に頭をさげてくる者をのみ愛して、みじんも、神のためとか、万民のためとかいう犠牲的精神はない。しかも現代では、これは普通のこととされていて、たがいに、日夜、利己のためにのみ鎬(しのぎ)をけずり合っているのである。
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身体が真の健康体になり得ない間は、みたまも汚されているのである。だからこの間は、あくまでも
直霊に省みて、間違った行跡のないようにと心がけねばならぬ。心身ともに健全になり得ない間は、まだ真の自己に回復していない時だ。だから、その間に考えたり為したりすることは、どうしても病的たるを免れがたいものだ。このことを、われ自らよく心得ておらぬと、あとになって恥ずかしいことがでてきがちだ。
『信仰覚書』第三巻、出口日出麿著