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【人生ノート304】その時その時のベストをつくして、楽天的に、感恩の生活をなすにある。
流れる水のごとく
いろいろと考えてみても、最初から、到底、一々分かるものではないから、とにかく、どえらい神さまである、この神さまにお縋りせねばならぬ、一切をお任せしよう、という決心さえついたならば、それでよい。
これが即ち、信仰心、帰依心というものであって、この信仰心さえ強固であったならば、この人はきっと救われるのである。なんとなれば、かかる人はかならず神第一の心が、どんな場合にでも出てくるから、素直に一切を神のみ手にまかすことが出来るからである。
これに反して、神を否む者、まかすという心のない者は、つねに自己中心に事をなさんとして、一時も真の安心というものなく、限りなき欲望の鞭に追われて、一生を苦悩と煩悶とのうちに送るものである。
少し肉体に知恵のある人、才能のある人は、ともすれば「自分」というものが主となりがちで、自分の力でやってみよう、自分はこう思う、というふうになりがちで、その結果は、真の神のお慈悲お力を悟ること少なく、自分では正しいと思ってやっていることが、かえって正しからざる道であったりすることが往々あるのである。
一切は神のみ心である、み旨である、と一々に感謝して、あるままに、成るままに、恨まず、そねまず、ただ自己の非をあきらかに非として、神のみ前にお許しを乞い、その時その時の仕事に懸命の努力を払うよりほかに道はない。
人間、安心立命の要諦は、一切を神にまかせ、流るる水の岸床にしたがって、あるいは緩く、あるいは急に、あるいは広く、あるいは狭く、すべてを自然にまかせて、その時その時のベストをつくして、天命を俟(ま)つゆったりした心で、楽天的に、感恩の生活をなすにある。
いろいろの理屈を知ったり、いろいろな技術をおぼえたり、金や名誉や財産を得ることが、決して真の愉快でも安心でもない。
こんなものは、いずれも第二義第、第三義的のものであって、人は、まず第一、強固なる信仰心の持主であらねばならぬ。
これをおいては、ほかに、真に幸福になり得る道も、平和になり得る道もあるものではない。
『信仰覚書』第五巻 出口日出麿著