【人生ノート 216ページ】 いく度も苦境をきり抜けてきた人は、どことなしに底力がある。
真価は逆境に立ったとき
何事にかけても、えらい人というのは、それ相当に苦心と努力をしてきているからで、けっして、生まれながらにして、その道の達人であったのではない。
どんな迂愚な人でも、ある仕事を三年つづけてやったなら、とにかく相当に、その道を解することはできる。
いかなる人でも、その人相応の素質を持たせられて生まれているのだから、それに従って努力さえしたらよいのである。「わしは年寄りだから」とか「おれは頭が悪いのだから」とかいう口実はなんにもならない。とくに日本人は性急で、しかも名欲の念に敏感だから、ちょっと年をとるとか、名家に生まれるとかすると、「人に笑われる」ということを非常に気にして、思いきって仕事をすることができない。
人はいつでも、「自分はいま生まれたてだ」という気分で、「いまからやろう」という暢達(のびそだつ)なところがなくてはならない。年齢を気にしたり、家門を気にかけたりしていて、どうして真の仕事ができようか。
ことに、現界で得ておいた識見、技能は、やがて、そのまま霊界へ持っていくのであって、自己の完成というものは、永遠的であるということを知ってみれば、なおさらのことである。人は最後の呼吸を引きとる瞬間までが、現界的修養の時期である。
お金をたくさんためていたところで、ある事変がおこれば、じきになくなるが、自分が苦労して働いて、それから得た無形の宝はなくならない。
たとえば、茶碗をつくる技術を知っていれば、茶碗がなくなっても、その人は茶碗を作ることができる。そればかりでなく、茶碗を作るためについやした努力が、みな自分のものになっているから、茶碗以外のものを作る場合でも、そのときのやり方を応用することができる。
我田引水的な手前ミソばかり並べていたところで、世間は目が高いから、なかなか、おいそれとひっかかるものではない。
まず中心から澄みきってしまわないと、外辺へおよぼすことなどとうていできない。
心を用いていれば一度で悟るものだが、不注意でいれば、一生涯、おなじことをくり返している。
人の真の価値は、一度、逆境に立った場合によく現われる。多くは、自分を省みるということをしないで、人を恨み世を呪いがちである。
順境にそだった人たちは、自ら手をくだすということをおっくうがるくせがあって、他に対して心からの同情心がなくて困る。いろいろな事にぶつかってしあげた人は、心がひろく、なんとなく頼もしいところがある。
しかし、一度逆境に立った人は、どうしてもひがむ癖がありがちで、とくにすこし才能のある人は、一種のいやな自尊心や警戒心がじゃまになって、どうも他人との和合がへたである。この、すこし才知のある人は、どうしても気ばかり走って、ねばり気がなく、急に効果をあげようとあせり、ともすると他を軽く見くびるくせがある。自己の至らざる点は思わずに、いたずらに環境を忌み、社会を怨み、ねたむようなことではいけない。
とくに近来は社会が非常に秩序だってき、昔のように一足飛びに名をあげるというようなことはなかなかできにくくなっており、世間の例を見ても、天才的な人よりはむしろ努力主義の人のほうが最後に頭角をあらわしているようである。何事でも、最終の勝利は人なみ以上の苦心と努力と忍耐とにあるので、世の中を知れば知るほど、単純な理屈どおりにはすべていかないもの、一時のケレンやペテンでは、真の徳はつかないものであるということが、ますます深くわかってくる。
逆境におかれたものでなければ、どうしても真の悟りにははいりにくい。
ただし、ここに逆境といったのは、単なる外見上のみのことでなく、その人相応に、そう感じた境涯である。
いろんな難関を突破した人でなければ、どうも偏狭で仕方がない。
一つずつ体験を重ねていって、次第に真に賢くなり、大きく広くなることができるのであって、最初からちっとも間違わぬよう、くるわぬようにやろうと思ってもダメである。それはちょうど、相手から一度も叩かれずに撃剣の達人になろう、生まれてから一度も砂の味を知らずに横綱になろうとたくらむようなものだ。
苦しんだことのない人は、奥行きのない人だ。
いく度も苦境をきり抜けてきた人は、どことなしに底力がある。
経験に無駄なし。
『生きがいの創造』出口日出麿著、真価は逆境に立ったとき