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ゴッホはなぜ浮世絵を描いたのか? 『たゆたえども沈まず』を100%楽しむための記事!

ゴッホの小説なのに、ゴッホの出番が少ない

『たゆたえども沈ます』は、原田マハ氏による小説で、世界的に有名な画家、フィンセント・ファン・ゴッホの生涯をテーマにした作品です。

 ゴッホといえば美術に疎い人でもしっているくらい有名な画家です。

 今回お話する『たゆたえども沈まず』ですが「ゴッホの小説だから、たくさんゴッホが登場するんだろうな」と思って読み始めたら、どちらかと言うとゴッホの出番は少なめでした。
 
 最初の120ページくらい、ゴッホが登場しません。ちょっとした短編小説だったら、もう終わってますね(笑)

 まずは、なぜ『たゆたえども沈まず』はゴッホの小説なのに、ゴッホの出番が少ないのかお話していきましょう。

『たゆたえども沈まず』という作品は複数人の視点から物語が進行していく、群像劇のような構成をしています。

 複数人の視点にはゴッホも含まれています。
 しかし著者が作中でより多く語っているのは、ゴッホの弟であるテオと、2人の日本人画商の林忠正と重吉でした。

「じゃあ、ゴッホのことがあまり語られてないの?」という声が聞こえてきそうですが、そんなことはありません。

 ゴッホの出番は少なめですが、この作品の中心にいるのは、最初から最後までゴッホという一人の画家です。
 
『たゆたえども沈まず』という作品は、ゴッホ本人ではなく、彼を取り巻く人間関係や外部環境を表現することによって、ゴッホがどのような画家なのか、上手に書かれています。

 この技法は見事と言わざるおえません。

 『たゆたえども沈まずを100%記事』ということで、私が今回皆様に覚えていただきたいのは、西洋絵画の歴史です。

 もちろん歴史を知らなくても、作品は楽しめます。

 しかし、西洋絵画の歴史を知っていると、『たゆたえども沈まず』がより面白くなるのは、間違いありません!

 この記事は、美術の歴史をシェアして、一人でも多くの読者様に『たゆたえども沈まず』を、より楽しんでもらうというのを目指しています!

 また文字による解説だけじゃなく、素晴らしい美術作品も共有していくので、楽しみにしていてください。

 それではまず、西洋絵画の歴史を見ていきましょう!

時代とともに変わる絵画

 西洋で起きた産業革命と、鎖国をしていた日本が開国したのは、人々の生活と歴史を変えましたが、西洋美術にも大きく影響を及ぼしています。

「産業革命はわかるけど、なんで日本が関係あるの?」なんて声が聞こえてきそうですが、実は西洋美術と日本は深い繋がりがあります。

 美術の歴史を振り返るために、時間を大きく遡ってまずは中世ヨーロッパの絵画事情を見ていきます!


 上記の記事でもお話しましたが、アーティストが好きな物を好きなように表現する、という考えは、つい最近生まれたものです。

 というもの昔の西洋絵画はカトリック教会が、文字が読めない人にもキリスト教を伝えるために、聖書の内容を絵画にしました。

 西洋絵画はキリスト教の布教のためのものだったので、昔の絵は宗教画が多いのです。

 それでは昔の西洋絵画を見てみましょう。

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 これはチマブーエという画家が描い『荘厳の聖母』という作品で、1300年頃に完成しました。
 聖母マリアと赤ちゃんのキリスト。そして天使が描かれています。

 皆さん、この作品を見てどう思いましたか?

「なんだか、のっぺりしてるし、みんな同じ顔」
「遠近感がなくて、現実味がない」

 このような感想を抱いたのではないでしょうか? 

 なぜ、遠近感がなく、のっぺりとしていて、現実味のない絵画が描かれたのでしょうか? それには理由があります。

 キリスト教が登場する前の古代ギリシャ・ローマの時代はヒューマニズムを重視していました。
 つまり人間っぽさを大事にしていたんですね。

 しかし、その後、キリスト教が勢力を増し、教会中心の社会になってくると、ヒューマニズムは影を潜め、人間らしらは重視されなくなったのです。

 そしてカトリック教会は布教のため、聖書の内容を絵画として画家に描かせます。
 この時期に教会が求めていたのは、リアリティな絵画や、人間らしい絵画ではありませんでした。

 神様っぽい神秘的な絵画だったのです。

 この神様っぽさを表現するために、あえて遠近感がなく現実味が薄い、のっぺりとした絵画を画家に描かせていたのです。

 なので『ルネッサンス 前 絵』でググると、『荘厳の聖母』のように、のっぺりとした絵の画像がたくさん出てきます。

 さて『荘厳の聖母』が描かれた後から情勢が変わってきます。

 そう、あの有名なルネッサンス時代にヨーロッパは突入していきます。

「ルネッサンスっていう言葉は知ってるけど、内容はよく知らない。芸人のギャグですか?」という人も多いんじゃないでしょうか?

 しかしルネッサンスによって、西洋絵画は大きく変、わります。

絵画にリアリティが生まれたルネッサンス

 ルネッサンスとは1300年ごろからヨーロッパで始まった文化運動です。

 ルネッサンスには「再生」や「復興」という意味があり、「古代ギリシャ・ローマの古典文化を復興させよう!」という運動です。

 まずは、ルネッサンスが起きた背景を見ていきましょう!

 カトリック教会のトップであるローマ教皇は、イスラム教徒から聖地エルサレムを奪還するため、十字軍を送りますが失敗します。
 さらに1302年、フランスの王様とローマ教皇がケンカしはじめました。そしてフランス軍がアナーニという街で、ローマ教皇を逮捕するアナーニ事件が起きました。

 フランス軍に捕らえられた、教皇はメチャクチャ怒りますが、あまりにも怒りすぎたものだから……

教皇「くっそー! 国王め! ローマ教皇である私を逮捕しやがってーーー! ムキーーーー! ウッ! ガク」

 なんと怒りすぎて死んでしまいました。

 絶大な権力を誇っていたカトリック教会ですが、十字軍の失敗とアナーニ事件が重なって、少し力が弱くなっていたんですね。

 その反面、イタリアのフィレンツェにいたメディチ家などの一族が商売で成功し、力をつけてきて影響力が強くなっていました。

 つまりヨーロッパのパワーバランスが変化していたんです。

 そして影響力が強くなった富裕層は……

富裕層「これからの時代は、古代ギリシャ・ローマのような人間っぽさを強調した芸術を広めていこうじゃないか!」

 こうして富裕層を中心に、ヨーロッパでルネッサンスの流れは広がっていきます。

 それではルネッサンス期に描かれた絵画を見てみましょう!

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 これは、1499年頃にレオナルド・ダ・ヴィンチによって描かれた『糸車の聖母』という作品で、こちらも聖母マリアと赤ちゃんのキリストが描かれています。

 さて『荘厳の聖母』とモチーフは同じですが、見比べると違いは歴然です。

 まるで本物の赤ちゃんが笑っているようだし、マリアの表情も母が我が子を慈しむような表情をしています。
 また遠近法の則った作りをしているので、絵画のリアリティが増していますね。

 これはルネッサンスによって、古代ギリシャ・ローマが大切にしていた、“人間らしさ”が復興したからだといえます。

 ここで勘違いしてほしくないのは、私は作品の優劣を決めたいのではありません。
 
 私が強調したいのは、社会情勢や時代の変化によって、絵画も変わっていくという点です。
 これは『荘厳の聖母』と『糸車の聖母』を見比べたことにより、わかってくれたかとおもいます。

 さてルネッサンスによって西洋絵画は大きく変化しました。

 しかし画家が好きな絵を描くことはなく、貴族や教会に雇われて、雇い主の指示に従って絵画を作成していました。

 なぜ、画家は自由に絵を描かなかったのでしょうか?

 それは、当時絵を描くのは、手間とお金が必要だったのです。

 現代なら絵の具やクレヨンなどの画材は、100円ショップでも売っているくらい身近で、安価なものになりました。

 しかし昔は顔料といって鉱石、金属、植物、貝殻などを砕いて色をつけていたのですが、絵を描くのに石や貝殻をイチイチ砕くのって、すごく大変ですよね。

 しかも顔料には簡単に手に入らないものもありました。

 ラピスラズリからしかとれない青は、顔料のなかでも特に貴重で、昔は金よりも価値がありました。

『青をたくさん使った絵画は、贅沢の極み』とも言われていたので、青が多いドラえもんを昔の人がみたら、贅沢すぎてビックリするかもしれませんね(笑)

 ちなみに有名なフェルメールは、青の使い過ぎが原因で生活が困窮していた、なんていうお話もあります。

 こように顔料がとても高価なので、お金持ちがスポンサーについてくれないと、画家は色が手に入らなかったのです。
 
 だから画家は貴族や教会の従事して、指示通りの絵を描いていたのですが、顔料が高価という時代も、ずっと続きません。

 テクノロジーの発展は美術にも影響を与えました。

 産業革命による技術革新によって、チューブ絵の具が発明されるのです!


絵画に日の光が生まれた

 チューブ絵の具が開発されたると、絵画の作成スタイルに変化が訪れます。

 わざわざ顔料を砕かなくてもよくなったので、どこでも気軽に絵が描けるようになりました。

 景色のいいところで、パレットに絵の具をのせて絵を描いている人がいますが、これができるようになったのは、産業革命以降のスタイルといえます。
 外で鉱石や宝石を砕いて絵を描いてる人なんていませんよね(笑)

 また産業革命によってテクノロジーが向上すると、余暇を楽しむ一般市民が現れるようになります。
 
 公園でピクニックしてみたり、カフェでお茶したり、海水浴をしてみたりですね。

 チューブ絵の具によって、外でも絵を描けるようになった画家は、余暇を楽しむ一般市民や、何気ない街の風景、豊かな自然に目を向けるようになります。

 この新しいスタイル取り入れた画家達が、いわゆる印象派になっていくのですが、ここで『印象派の絵画』と、『印象派が現れる前の絵画』を見比べて見ましょう。

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ピエール=オーギュスト・ルノワール 「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」-1024×761

 一枚目はルイ・ダヴィッドのサン・ベルナール峠のナポレオンという作品です。
 そして2枚目は印象派の画家、ルノワールによる『ムーラン・ド・ギャレットの舞踏会』という絵画です。

 ダヴィットのナポレオンは迫力があり、今にも動き出しそうなほど写実的ですね。
 対してルノワールの絵画は、どちらかというとボンヤリとしたタッチなので写実的とは言えません。

 作品の優劣の決めるのではなく、ここで注目してほしいのは、自然な明るさです。

 ルイ・ダヴィッドのナポレオンは写実的で迫力はありますが、太陽光が自然にさしているキラキラした絵画とは言えません。
 どちらかとルノワールの方が、絵画全体に自然な太陽光に溢れ、キラキラと輝いて見えます。

 これはチューブ絵の具の登場によって、日の光がさす屋外で、絵の製作が出来るようなったから生まれ変化といえます。

 印象派の登場によって、絵画に日の光がさしたのです。

 西洋絵画に変化を与えたのは、チューブ絵の具だけではありませんでした。

 実は日本の浮世絵が大きく関わってきます。

フランスに浮世絵がやって来た!

 1864年のフランスで、パリ万博という大きなイベントが開かれました。。

 42ヶ国が参加し、出展国の中には鎖国を解いたばかりの日本も含まれていのです。

 さてパリ万博が開かれた1864年といえば、大政奉還が行われた年です。 

 江戸幕府が倒れ、明治政府が発足しようとしている激動の時代真っ最中でした。
 ちなみに渋沢栄一という人物は、幕府の命令でパリ万博に行くのですが、日本に戻ってきたら江戸幕府が終わっていたという、なんとも数奇な運命をたどります。

 パリ万博にて日本は浮世絵を出展するのですが、これがフランスの画家に大きな衝撃を与えます。

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 いくつか浮世絵を見てみましたが、西洋画と異なるのは一目瞭然でしょう。

『遠近感がなくのっぺりしているのに、色彩が鮮やか』
『波や人の顔など、極端に誇張された大胆な構図』

 このような表現は西洋にはなく、浮世絵を見た外国人は「な、なんだこの絵は!? いままでこんな表現方法は見たことがない! 日本すごい!」と驚愕しました。

 さらに後に印象派と呼ばれる若手画家達は浮世絵を研究し、今までにない表現方法を我が物にしようと研究し始めるのです。

 また一般市民の間でも浮世絵が流行し、当時のフランスで日本ブームが巻き起こり、ジャポニズムという言葉が生まれます。

 一方、日本において浮世絵は、古新聞同然でした。

 浮世絵を大事にとっておく人なんてほどんどおらず、茶碗を包む紙に使っていたそうです。

 そこに目を着けたのが、『たゆたえども沈まず』の作中にも登場する林忠正という人物です。

忠正「おばちゃん、この浮世絵。もらっていい?」

おばちゃん「こんなの欲しがるなんて、変わってるね。いいよ、好きなだけ持っていけ!」

忠正「ありがとー、おばちゃん」

忠正「フランスのみなさーん、正真正銘の日本から持ってきた浮世絵ですよ! 100万円で売ります!」

フランス人「買イマスヨー! 浮世絵、欲シナデース!」 

 こんな感じで林忠正は、日本では見向きもされていない浮世絵を、フランスに持っていき、高く売っていたのです。

 浮世絵といえば日本美術として、世界的に高く評価されていますが、その価値に気づいたのは、我々日本人じゃなく外国人だったのです。

 さて、林忠正はただ外国に浮世絵を売って、荒稼ぎしていたわけではなりません。

「浮世絵をバカにして芸術性を認めないなら、日本から浮世絵が消えてしまう」と警告していたそうです。
 そして、すぐれた浮世絵は自分のコレクションにして、どれだけ金を積まれたとしても手放さなかったそうです。

 林忠正こそ浮世絵の価値に気づいた最初の日本人であり、彼が外国に売らなければ、浮世絵は日本で古新聞同然の扱いを受け、今ごろ残っていなかったかもしれません。

印象派は元々悪口だった!?

 チューブ絵の具の登場、浮世絵という新しい表現方法を手に入れたフランスの画家達ですが、当時の美術界は芸術アカデミーが牛耳ってる状態でした。

 芸術アカデミーに認められて、貴族を紹介してもらい、お金持ちがパトロンになってもらわないと、食べていけなかったのです。

 自由に絵が描ける環境は整ってるけど、自由に絵が描けない! そんな中、現れるのが、あの有名なクロード・モネです。 

 モネは若いころは、芸術アカデミーに認めてもらうため頑張っていましたが、彼は風景画が多い画家です。
 
 なので伝統を重んじて、神話画や宗教画をよしとする芸術アカデミーに、受け入れてくれなかったのです。

モネ「くっそー、偉い人はなんで俺の絵を認めてくれないんだ! これからは、画家がもっと自由に絵を描いていい時代なのに。こんなのは間違っている!」

 このように保守的で厳格な規律を重んじる当時の美術界に、モネは疑問を抱いくようになります。

 1874年にモネは画家仲間達と、自主展覧会を開催しますが、ここに集まってくるのが、すごいメンバーです。
  
 ルノワール、ピサロ、ドガ、セザンヌと言った、後の巨匠と言われ画家が、自主展覧会に出展します。

 そう印象派と呼ばれる画家達ですね。

 つまり印象派というのは、堅苦しい美術界に反旗をひるがえした反逆児であり、新しく活気のある集団だったのです。
 
 それでは、モネが初の自主展覧会で出展した絵画を観てみましょう!

クロード・モネ 「印象 日の出」-1600×1200 (1)

 これがモネが自主展覧会に出した『印象・日の出』という作品です。

 先に紹介した『荘厳の聖母』、『糸車の聖母』と比べると、ずいぶんボンヤリとしています。

 現代、印象派の展覧会が開かれようものなら、彼らの絵を一目見ようと、たくさんの人が美術館に集まってきます。

 しかしモネ初展覧会は散々な結果に終わります。

「ボンヤリとしていて、何が描いてあるかわからない」
「この絵は未完成なの?」
「こんなのは絵じゃないよ」

 このように酷評が多く寄せられるのですが、その中でも極めつけは当時、美術界の大御所だったルイ・ルロワの放った一言です。

ルロワ「こんなのは、ただの“印象”でしかない!」 

 ルイ・ルロワの悪口が元になって、“印象派”という名前がついたのです。

 こうしてモネ達の展覧会は散々な結果に終わり、美術界の大御所であるルイ・ルロワから“印象派”という、屈辱的な名前までつけられてしまいました。

 けれどモネは諦めませんでした。二度目の自主展覧会を開催するのですが、出展した絵画をみてみましょう!

クロード・モネ 「ラ・ジャポネーズ(着物を着たカミーユ)」-619×1024

「日本大好きです!」という気持ちがひしひしと伝わってきますね。これは個人的に好きな絵なので、皆さまと共有したかったです。 

 タッチがボンヤリしているので、写真のように写実的とは言えませんが、明るくて躍動感がありますね。 

 さて、第2回印象派展覧会もさんざんな結果となりましたが、印象派の画家達は何度も展覧会を開きます。

 あまりにも注目されなくて、不和が生じたり、資金繰りが難しくなったこともありましたが、印象派は徐々に注目されるようになっていきます。

 そして印象派の人気が出始めた頃、グーピル商会というお店で画商をしているテオドロス・ファン・ゴッホという男のところに、“ある人物”が訪ねてきました。

 その人物というのが、フィンセント・ファン・ゴッホ、後に世界的に有名な画家となる人物です。

ゴッホのデビューは遅かった!?

 例えば、あなたの身内にこんな人がいたとします。

 叔父の紹介で就職したのに会社を辞めて、宗教活動をするも上手くいかず、30歳手前にして突如「画家になるから資金援助してくれ」と言ってきたら、あなたは資金提供することができますか?

 私だったら「頼む、ハローワークにいって、職を探してくれ!」と言ってしまいそうです。

 さて、30歳手前にして画家を志したのがフィンセント・ファン・ゴッホであり、資金提供したのが弟のテオドロス・ファン・ゴッホ(通称、テオ)です。

 悪い言い方ですがゴッホは弟のヒモだったんですね(名前はフィンセントですが、広く知られているのでゴッホと呼びます)

 先に紹介したモネ、ルノワールは10代から20歳手前ごろには画家を目指していましたが、30歳を前にして画家を志したゴッホは、かなり遅い決意と言えますね。

 ゴッホが画家になる前は何をしていたのか、お話しましょう。

 ゴッホはオランダの牧師の家庭に生まれ、16歳で叔父の紹介で、美術商をしているグーピル商会という会社に就職するのですが、上手くいきませんでした。

 グーピル商会を退社したゴッホは、24歳で牧師を目指すために、大学に入学しようとしますが、挫折して26歳で伝道師になります。

 伝道師になったゴッホは貧しい人のために、献身的に奉仕するもやり過ぎました。

 持っているものを全部、貧しい人に渡してしまったので、裸同然の格好でになってしまい、しかもワラの上で寝るという有り様になってしまいます。

 どっちが貧しい人か、わからないですね。

 周囲の人からは「ゴッホ、ちょっとやり過ぎだよ」と言われますが、ゴッホは聞かなかったので、伝道師仲間からハブにされてしまいます。

 そして“やり過ぎ”が災いして、伝道師協会から採用してもらえず、聖職者になることはできませんでした。

 その次の年、27歳のゴッホは画家になることを決意するのです。

 ゴッホは弟テオの仕送りで生活して、絵を描いていました。そして生まれたのが、この作品です。

ゴッホ「ジャガイモを食べる人々」-1920×1364

 これは『ジャガイモを食べる人たち』という絵画です。

 迫力はありますが、暗く、重たく、孤独と貧困が伝わってきます。

 そしてこの絵を描いた翌年、33歳になったゴッホは弟がいるパリにフラりと現れたのです。

ゴッホがパリにやってきた!

 パリにやってきたゴッホは、テオと同棲します。

 この時のフランスは印象派と浮世絵が盛り上がっていた時期です。

 ゴッホは印象派や浮世絵の表現方法を学びました。

 そしてゴッホは、この時期に浮世絵の模写をはじめます。

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 これらはパッと見ると浮世絵ですが、どちらもゴッホの模写なのです!

 そしてゴッホの浮世絵模写の集大成と言える作品がこちらです。

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 これは『タンギー爺さんの肖像』という作品です。

 先程の『ジャガイモを食べる人たち』と比べると、その差は歴然です!
 全体的に明るくキラキラしています。

 初老のフランス人男性が浮世絵をバックに佇んでいるという、とても面白い構図の作品ですね。
 モデルになっているタンギー爺さんというのは、当時のパリで画材屋を営んでいた人物で、貧しい画家のために安く、時には絵画で画材の支払いをすることをしていました。

 そのため多くの印象派の画家がお世話になっており、ゴッホもその中の一人でした。

 お世話になったタンギー爺さんのために、描いた一枚なのかもしれませんね。またゴッホの日本愛が伝わってくる作品でもあります。

理想を求め南へ、そしてユートピアの崩壊

 ゴッホはパリを離れて、理想の日本を求め、南フランスのアルルという村に移り、ここで様々な名画を生みます。

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ゴッホ「夜のカフェテラス」-1515×1920


 
 1枚目は『ひまわり』、2枚目は『夜のカフェテラス』という作品です。
 どちらも人気の高い作品ですが、これらはアルルに移ってからの絵画なんですね。

 ちなみに『ひまわり』は、東京の損保ジャパン日本興亜美術館にあるので、日本人なら比較的観賞しやすいゴッホの作品です。

 さて、理想郷を求めてアルルに移ったゴッホでしたが、現実は甘くありませんでした。

 画家仲間のゴーギャンと共同生活をして創作に打ち込みます。しかし2人の間で仲違いが発生し、ゴッホは刃物を持って暴れまわり、自分の耳を切るという事件を起こします。

 そして精神病院に入院して、精神病の発作が落ち着いた頃に描いたのがこれです。

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『包帯をした自画像』と言って、これも有名な作品ですね。『耳切り事件』を象徴するような一作ですが、ゴッホの後ろに目を向けてください。

 浮世絵が書かれています。

 ユートピアは崩壊してしまいましたが、実現できなかった理想の世界を諦めきれていなかったのかもしれません。 

大作の完成! そして自殺……

 精神病院の窓から見た景色を元にして描いたのが、あの有名な『星月夜』です。

ゴッホ「星月夜」-1920×1546

『星月夜』はゴッホの代名詞とも言える作品ですね。

 さて、この『星月夜』が完成したあたりで、弟のテオがヨハンナ(通称ヨー)と結婚して、子供も産まれていたのです。

 そんな中、ゴッホはパリから少し離れたところにある、オーヴェール・シュル・オワーズという街に移り、2ヶ月ほど絵を描きながら生活した後……

 ピストルで自らの胸を撃って自殺しました。享年37歳です……あまりにも若すぎる死ですね。

 画家としてもわずか10年という短い画業でした。

 最後にゴッホが自ら命を断つ前日に描いていた絵画を紹介します。

ゴッホ「カラスのいる麦畑」-1920×909

 これは『カラスの群れ飛ぶ麦畑』という作品です。

 暗い空へ向かってカラスが飛び立つ様はどこか不気味な反面、下に広がる金色の麦畑は色鮮やかです。

 1枚の絵でこんなにも明暗が別れている作品はなかなかありません。

 ゴッホは死後、認められ彼の絵画は何百億という値段がつけられますが、『カラスの群れ飛ぶ麦畑』は死の不穏さと、死後に訪れる輝かしい栄光を表しているような気がしてなりません。

 ゴッホの死後、弟のテオは体調を崩し、後追うように亡くなりました。

『たゆたえども沈まず』は史実に基づいたフィクションです 

 ゴッホは生前は全く認めらなかった故に、記述が少なく、わからない事が多い画家です。

 それでも彼の生涯があるていど判明しているのは、作品と、900通にも及ぶテオへ送った手紙によるものです。

『たゆたえども沈まず』の作中では、ゴッホがどのようにピストルを手に入れたか詳細かつ、ドラマチックに表現されていますが、実際にはどうやってピストルを入手したのかは、わかっていません。

 自殺ではなく、他殺だったのではないか? という説もあります。

 謎が多いゴッホですが、その空白を原田氏が想像で補っているように、私は感じました。

 しかし史実に反している事はありません。

 文学的に表現しつつも、ゴッホの生涯が、ちゃんと書いてある作品です。

 今回は記事を書くにあたり、『たゆたども沈まず』だけじゃなく、『もっと知りたいゴッホ』という画集も参考にしました。


 ゴッホの絵画と共に解説が詳しくのっているので、皆様にシェアしたいとおもいます。

 それでは、またどこかでお会いしましょう!

 バイバイ✋




  



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