随想起抜「門前の小僧習わぬ経を詠む」
小説『七日 nanoka』第五話(3)更新日のお知らせ 令和7年1月29日 13:00
を予定しておりましたが、27日16:00時点、熱が38度ございますことから
更新アップを延期いたします。申し訳ありません。
またご連絡いたします。
読者の足跡というものは幾つかのことを教えてくれるのである。本宅アメブロのアクセスの散らばり方を見ていると、何処かでバイアスとチアの鬩ぎがあったことを教えてくれる(笑)
これはね、どっちにしても有難いことなのだよ。
言わせてもらえば、話題に出ているうちが華なのであって、話題にも上らなくなったらつまらないことこの上なし。良いにつけ悪いにつけヤンヤヤンヤとされることに感謝しなければならない。
その上で書かせてもらうこととするのだが。
不遜極まりないようですが、わたし_________読めるよ。
チョット…… 読める。
もうこれはしょうがない。神様やご先祖様、遺伝子に組み込まれた感性だから否定するのもバカバカしい。遜るのもアホラシイ。
ただしいつも言うことだが、読みたいものしか読まぬからして、SF作品とか転生作品とかは解析酵素を持たないので許してたもれ。なんで苦手なのか自分でも分からぬし、突き詰めたことも無い。
純文学、大衆文学、官能文学、詩短歌俳句……情けないことにこれだけ。
門前の小僧習わぬ経を詠むという言葉をご存じだろうか(笑)
文学を学問として修めた記憶は無いものの、幼少期からの官能文学(エロ小説)や純文学との触れ合いを通じ、我が感性は完全な耽美、唯美傾向へと振り切っている。
例えばだ、耽美唯美というものについて考えたことの無い人などは、世一は耽美唯美を標榜しているが、何処が耽美であり唯美なのかと考える人があっても不思議ではない。が、有体に申し上げて、耽美唯美とは「美辞麗句」に代表されるものではない。本を読まぬ者たちには全くわからんだろう。
ときには形式美、様式美として姿を見せるであろうし、実験結果として想定外の「美」を見せることもある。書き手の考える「美」をどのように表現しきるか。
それも「模倣」ではなく限りなくオリジナルとして。
絵画と一緒なのだよ。
このLinkなどは、私の考える「美」を最もわかりやすく描き切っている。
申し訳ないが結論として書き切ってしまえば、読めぬ者に書けるわけがないのである。従って、SFとか転生作品とかを読めないわたしが書けるわけがないのは道理である。
それだけのことだ。読みたい人は読めばよいし、書きたい人は書けばよい。それだけのこと。上でもなければ下でもない。棲み分けということでしかない。なんでも読める、なんでも書ける人が居たとするなら凄いことだわよ~
先日も、とあるところでコメントを一本書かせて頂いたのだが……
例えば「退廃的」という情景を想起させるうえで、直接的に退廃的という言葉を使うことは「取り説的」であって、純文学や官能文学、大衆文学においては使うことが避けられて不思議のない言葉である。魂を込め感じさせようとすればするほど「使わない」言葉だ。
「それに代わる言葉や表現」をもって退廃的な雰囲気を感じさせようとする試み。ここに滲み出そうとするものが耽美であり、唯美の存在であり、意義でもある。ここの扱い方によってそれぞれの「主義」は読めてくる。
とあるサンプルでは「蛾」が退廃のメタファとして使われていたが、今の時代においては些か様式的に使い古された「印象」は否めない。
今であればそれに代わる表現や文字列の組み立てを考えるところだが……
結局この古典的、様式、形式を読めた処から始まるということは理解しておく必要がある。
わたしが言う「読めなければ書けない」とはそういうことだ。
人間が書く「人間」には必ず魂が迸る一節が存在する。
読むという行為は、そこに触れることだ。
純文学、大衆文学、官能文学には「真実」としてそれが存在する。
わたしが離れられない所以だ。
マーケットがそれを求めるか否かは別だがね。
了