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アルルに堕ちる星の屑

「今夜は冷えるわねぇ…」
 暦はまだ九月だというのに初冬を想わせるほどに冷えるのよ。真冬であれば滑り止めのブーツを履かせてくれるあの人も、雪も降らない、路面も凍らないようではゴムブーツも履かせてくれないものだから、ジンジンとした底冷えが私の足を這いあがり私の痩せぎすな体をひやすわけ。
 ちょっと人肌が恋しく思える今頃の季節、ねえ… 抱いてよ私を。あたためてよ。あなたのその武骨な手で… 黄色や青の絵具に塗れた手で私を温めてよ。私たちのあの黄色いお家で……。あぁ… あなたのその手に染みついた絵具の匂い、それだけがわたしを昂らせる。ねぇ… 知ってる? 
「そうね…、川っぺりだもの、なお更に冷えるのね」
 この時期はまだ外套も身に纏わせてくれないあの人…。身ぐるみ剥され、生まれたままの姿を秋の夜風に晒す。わたしの肉付きの薄い骨身を薔薇の小枝よろしくこれでもかと風が刺し通り抜けてゆくわ。
 この二月の引っ越しで、あちらこちらをぶつけた私の躰は打撲やら剥離やらも相まってそこら中を痛々しいものとしていたの。
「ねぇ…、また知らぬ振り? 黄色いお家じゃ柔らかな革で優しく磨いてくれるくせに。画を描くときは知らんぷり。ねぇ、都合の良い私なの?」
「ねぇ…、聞いてる? 冷える夜ぐらいは休ませて… 」
ねぇ…、いつものように知らんぷり? 嘘よ… 私はあなたのものなのだから……。

「やだ…、冷たい…、痛い…、なによ、あっ…」
 関節を繋ぐブリキのヒンジが川面を渡る北風で冷やされたのね、やだ、神経痛が… どおりで骨身にしみるわけよ。
 九月半ばの夜でこの寒さ、真冬を想うだけで膝や背筋や首のリュウマチが…。
 それにしても空気が澄んでいるのね…。
「今夜の星は格別だわ」
 なんて見事な星たち。ウルトラマリンとコバルトブルーを落とした夜空。きっと月の明かりがないことが星たちの存在を際立たせているのね…。
「あれはオオグマ座ね… 」
 お尻にあたる部分のひしゃく星がローヌの流れから浮かび上がったように低いところで瞬いているわ。ローヌの冷たい水を汲み上げたように。
「ビャーン ! トレビヤーン」
 川向こうのガス灯が、ローヌの川面で揺蕩って(たゆたって)いる。ローヌの流れがその黄色い明かりを弄び(もてあそび)、夜空の星との共演も最高潮を迎えているわ。
「ねえ、あなた…、帰りましょうよ、あの黄色いおうちに」
 そして、あたためてよ… 私を。

「ボンソワール、Mme.(マダム)イゼール。今宵も変わらぬ美しさ。カモシカのような御み足がさぞかし冷えるでしょう。大丈夫かい。今夜はまた一段と凍えるものね。さぞやこたえるでしょう。やぁ… これは ! そんなに"サブイボ"を立ててるではありませんか」

「まぁ、誰かと思えばM.(ムッシュ)バンブーpinceau卿ではありませんか。ボンソワー。恥ずかしいから見ないで… それはそうと、さすが今では引っ張りだこの貴方様。やはり今夜も駆り出されていたのね」

「引っ張りだこかどうかは判りませんが、我がマスターの創作意欲が高まってますからね。当地アルルに越して以来調子も良いようであり、前作の夜のカフェテラスに続いての星月夜シリーズ…、お仕えする身ですからしようがありますまい」

「そうですわねぇ…、こっちに越してから夜のシリーズが始まったようですものね…でもM.バンブーpinceau卿、貴方はずっとオイル漬け。私より貴方の方が冷えるでしょう?」

「Mme.イゼール…、お心遣い恐縮です。ただオイルは比重が重いがゆえ、熱の影響は大きいのですが、幸い冷えには強いのです。従いまして夏に比べりゃだいぶ楽、天国と地獄なのでございますよ」

「まぁ、そうなのね羨ましいこと…。私なんか…、あらっ…、よしましょ~、おばさんの愚痴なんか聞きたくないわよね…」

「……、おっと失礼マダーム、チョット夜風に流されたのでしょうか、何も聞こえませんでしたが…。それはそうとマダーム・イゼール。今宵は星とガス灯に照らし出された川面を背景とする貴女は一段と美しい…、その凛とした山ゆりを想わせる立ち姿…、あの花の都パリはエッフェル塔すら嫉妬するほどに」

「まぁ… お上手なのネ、ムッシュバンブーpinceau卿ったら。でも、今日のこの星空を眺めているとロマンチックな気持ちになりますことネ」

「仰る通りですね。マスターもこの星空のように落ち着いて専念できると良いのでしょうが、如何せん異物を……。おっと、余計なことを。どうかお忘れください… 」

「M.バンブーpinceau卿、相変わらず竹を割ったような性格でいらっしゃって。貴方の心配は、一緒に暮らすマスターの恋人…のことね? 」

「恐れ入ります。ええ。少し気になるところですね。この間も大げんかをしてましたから。あのとき…… 僕はマスターの手に握られると、恋人に向けて投げつけられましたからね。恐ろしかったですよ。危なく骨折再起不能になるところでした」

「私も見ておりましたわよ。褥(しとね)のわきから。まぁ幸か不幸かあの人、経済的には恵まれていないでしょう? 相変わらず画も売れていないようですし。こんな私でもお釈迦にするとチョット描けなくなるでしょうから、おいそれと私に手は挙げることは無いのでしょうけど…」

「いや当然ですとも。Mme.イゼールに手を挙げるようなことがあったら、私が油瓶ごとひっくり返って、キャンバスを駄目にしてやろうじゃありませんか。そうそう、先日も弟から五十フラン送られてきていましたから。あのときに細々とした新しい仲間が結構増えましたね… 」

「え~え~、キャンバスや絵の具や筆の皆さんね」

「そうそう。僕なんかボチボチお払い箱かもしれないし……」

「大丈夫よ。私のマスターは道具を大切にする人だもの」

「わたしの…… ?」

「私たちのよ、私達の。そうそう、弟への手紙に書いてあったらしいわよ、これからは夜の景色を積極的に描いてみたいって…」

「ほう。それはどこ情報ですかな?」

「M.羽ペンが教えてくれたのよ。たまたまマスターが私の上にM.羽ペンをのせた時に話をしたのだけど。この処のマスターは随分手紙を書いているようね…って。彼もだいぶ疲れていたわよ。羽づくろいも出来やしないって。あのオシャレさんの羽も随分ボロボロだったわ」

 M.バンブーpinceau卿からの返事が返らぬと訝っていると彼はマスターの手に握られキャンバスの上で輪舞を舞っていた。ここから見ると夜空の星たちを背景にさながらワルツでも踊っているように観え、嫉妬を憶えるじゃない。
「ねぇ、私も… 握って…、そして踊ってよ… 」
 優しく円を描くように重ねられるコバルトブルーとウルトラマリン。
 あの人の得意な色。でもねあの人、色素の判別能力に制限があるのよね。黄色と青の視認性は高いのだけど、それ以外の一部の色は可視制限がかかっているのよ。だから黄色と青の画が多いの。なにやら黄視症というそうなのだけど、凡ての色が黄色いフィルター越しに見ている様に感じられるらしいわ。

「チャプン… 」
 オイルに戻されたのかしら。私の足元でオイルがはじける音が…、やだ、濡れちゃったじゃないのよ私の足が。染み込むのよ… オイルは。やだぁ、シミになっちゃう… 。この歳になると染みは大敵なんだから。

「マダーム.イゼール。申し訳ありません、貴女との素敵な会話を中座するなんて… 不敬な奴だとは思わないで頂きますように」

「まぁ気にすることはありませんわ。それが私たちの定めですもの。マスターにお呼びがかかっての私たちですからね。それで、どうでしたの今夜のマスター」

「そうですねぇ~筆は冴えておられましたね。走ってましたよ。リードも心地よかったですし、ですがまだ塗りはじめですからね。色を重ね色を置き始めるところまではチョット分からないでしょう」

「そうよねぇ… 。あの人ったらいったい何時まで描く気かしら。私も寒くて足がガクガクしてきたのよ」

「そうでしょう~ いち段と冷えてきましたからね」

夫婦だろうか。恋人たちかしら。川べりに腰を下ろしローヌの流れを愛でていた者たちが腰を上げこちらに向かって歩いてくるわ。程なくガス灯も消える時間なのかしら。腕を組み、こちらに向かって歩いてくる男女も寒そうだわ。
 あら? あの人も道具を片付け始めたようね。オイルの中で洗われているM.バンブーpinceau卿が何かを云っているわ。何を喋っているのかしら…。

「ブクブクブク… 今夜はここまでブクブク… 良かったブクブク」

「まぁ~ M.バンブーpinceau卿、ありがとう。またあとでね」

 このときの私は、翌年の十二月二十三日に降りかかるあの事件のことは知る由もなかった。1889年イブの前日。あの人の、あの耳キリ事件のことは。

※本作は小説家・嗣人氏の作品「夜行堂奇譚・家電三部作」「神様シリーズ」へのオマージュを滲ませ2022年9月に仕上げた第3稿です。
こういうのは書いていて楽しい(笑)
現在、第四稿を執筆しており、その第四稿では歴史時代色を滲ませた本作とは違った作品としております。これはこれで、なにか可愛いのよ(笑)

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