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『覇王の譜』
終幕に一粒こぼれた。将棋が分からなくてもこんなことになるの?
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奨励会に在籍「した」という経歴で挫折を想像させる。私ならピアノのグレードテストに落ちたときのことも英語検定を取り落としたときのことも傷で傷で、通ったあともそのときのことなんて書きたくない。愛して、だめで、それでも愛していないととても書けない。
感想戦と、AIとの向き合いかたを描く場面で
スタンダードに、一気に主人公を好きにさせる。「目の前にあった、食べたいと思った蜜柑を」もぎ取るような二番手を、しっかりと嫌いにさせる。対局と、回顧や(述べていないことも含めた)走馬灯がバランスよく進んでいく。時間の流れ方が心地よい。この文章たちが事実として存在している。棋力とともに同じ体にこの筆力をもっているのだ。
わたしの中に堅く陳腐になりがち将棋小説のタイトル問題というのがあって、この小説は堅いまま(手に取ってもらうまでが問題!)納得の、いい線いっている!という感じがする。最終対局者のどちらが勝つか分からない題にもなっていると思う。結果として覇王というのは三木の詰将棋という意味だと受け取った。
山形で読みました📚