義務教育の教科書に載らない歴史:『斎藤道三:油売商人から戦国大名への驚異的な軌跡』
このブログでは、普段は自己啓発、ライフハックなどを紹介していますが、これからを予測することだけでなく、過去に学ぶことも非常に大切だと考えているので、織田信長や、聖徳太子のようには小中学校の教科書に載らないけれども、現在の私たちが多くの学びを得られるであろう歴史上の偉人を趣味の一環として紹介していきます。
そんな私が「学びを得られる」ことで、特に「ビジネスマンが」と言うことで、真っ先に思いついたのが、美濃のマムシこと「斎藤道三」。
油売商人から戦国大名に上り詰めた斎藤道三は、日本歴史上最も顕著な「下剋上」の事例の一つとして知られています。
斎藤道三の躍進の軌跡をたどり、彼の歴史的意義を深く掘り下げます。
美濃国の支配、織田信長との複雑な関係、そして彼の晩年と死に至るまでの道のりを詳細に追い、歴史における彼の足跡を明らかにします。
斉藤道三の基本情報を簡単に
斎藤道三は、戦国時代に美濃国(現在の岐阜県)を支配した武将で、戦国大名です。
生誕から晩年に至るまで、彼の歩んだ道は、戦国時代の日本における動乱と変動の時代を反映しています。
初期の生涯と背景
生誕と出自:美濃の油売商人から戦国大名へ
斎藤道三は1494年頃に生まれ、先ほども伝えた通り、もともとは油売商人でした。
しかし、彼の野心と才能は、この油商人と言う身分を超えていました。
彼は
「漏斗(じょうご)を使わず、油を一文銭の穴に通します。油がこぼれたらお代は頂きません」
との口上で道行く人の気を惹き、商売を大成功に導いたのでした。
しかし、行商に行った先で、武士から「その力を武芸に注げば良い武士になれるものを」と言われたのをきっかけに一念発起。
斎藤道三は油商人をやめ、槍と鉄砲を学んで達人となり、念願の武士になります。
武士としては美濃国の政治における重要人物との繋がりを築き、やがて政治の世界に足を踏み入れることになります。
この期間に、彼は自身の知恵と権謀術数を駆使して、美濃国の有力者たちの間で影響力を増していきました。
地位確立への道のり
斎藤道三の地位確立への道のりは、戦略的かつ冒険的なものでした。
武士としての斎藤道三は、はじめに美濃国の小守護代「長井長弘」(ながいながひろ)に仕えます。
長井長弘は、美濃国守護の土岐氏の家臣にあたる武将です。
なお、長井氏に仕えるに至ったのは、以前入っていたお寺のつてだったと言われています。
その後、斎藤道三は長井長弘のもと、その武芸と才覚で頭角を現し、美濃国主・土岐氏の次男「土岐頼芸」(ときよりのり)に一目置かれる存在となり、政治の舞台に登場します。
美濃国の守護代・斎藤氏の地位をつかんだ斎藤道三でしたが、彼の野望が、ここで潰えることはありません。
その頃美濃は、兄を追い出した土岐頼芸が実質的な守護の座に就いていましたが、まだまだ状況は不安定。
土岐一族内での和睦が進む中、突如として斎藤道三が土岐頼芸の弟「土岐頼満」(ときよりみつ)を毒殺します。反旗を翻した斎藤道三はそこから巧みな政治的手腕と軍事的才能を駆使して、次第に自身の勢力を拡大していきました。
美濃国における権力争いの中で、次々と娘を有力者の正室としていき、彼は様々なライバルを出し抜き、ついには美濃国の実権を握るに至りました。
この過程で、彼は「美濃のマムシ」として恐れられるようになり、その名を戦国の世に轟かせることとなります。
斎藤家と織田信長の関係
戦国時代の日本は、力と知恵を駆使した大名たちの同盟と対立によって形作られました。
特に注目すべきは、斎藤家と織田信長との間に形成された複雑な関係です。
斎藤道三と織田信長の間の政治的絆は、戦国時代の政治地図に大きな影響を与えました。
斎藤道三と織田信長の政治同盟
斎藤道三は、美濃国を掌握した戦国大名であり、彼の権力は当時の日本において非常に大きなものでした。
一方、若き日の織田信長は、尾張国の小大名であり、まだその力は大きくありませんでした。
この時、斎藤道三は織田信長との同盟を模索し、両家の力を結集させることで、より大きな勢力圏を形成しようと考えました。
この政治同盟は、当時の戦国時代の情勢において、重要な意味を持っていました。
斎藤道三の策略と織田信長の野心が結びついたこの同盟は、後の戦国時代の動きにおいて、重要な役割を果たすことになりました。
娘・帰蝶の織田信長への嫁入り
斎藤道三と織田信長の同盟を象徴する出来事は、斎藤道三の娘・帰蝶(濃姫)が織田信長に嫁いだことです。
この政略結婚は、両家間の結びつきを強化し、信長の美濃国に対する影響力を高めました。
帰蝶は、後に織田信長の正室として知られるようになり、彼女の結婚は、織田家の勢力拡大において重要な役割を果たしました。
晩年と死
斎藤道三の人生は、力と知恵による隆盛を経て、家族内の確執と悲劇的な結末へと導かれました。
彼の晩年は、家督争いと政治的な闘争に満ちており、戦国時代の複雑な人間関係と権力闘争を象徴しています。
斎藤義龍との確執
斎藤道三と息子・義龍との関係は、次第に緊張し、最終的には悲劇へと発展しました。
道三が威信を築き上げていた一方で、義龍は自身の権力基盤を固めようとしていました。
この父子間の確執は、次第に深刻化し、美濃国内での権力闘争へと発展しました。
義龍は、自らの権力を確立するため、そして父の影響力から脱却するために、最終的には父に対する反逆を決意します。
この確執は、斎藤家内部の権力闘争の象徴であり、戦国時代の家督争いの典型例として後世に語り継がれていきます。
晩年の戦いとその結末
斎藤道三の晩年は、息子義龍との間の激しい戦い、いわゆる長良川の戦いです。
1556年4月18日、斎藤道三は、稲葉山城から北にある「鶴山」へ陣を進めました。
鶴山に集まった国衆は約2700とされています。
また、この動きに対して、斎藤道三の娘・帰蝶の嫁ぎ先である織田信長も斎藤道三に加勢しようとしました。
一方、稲葉山城の斎藤義龍には、安藤守就、稲葉一鉄、氏家卜全、不破光治、日根野弘就などが味方し、約1万7000もの軍勢を誇りました。
この2人の争いに対して、美濃の武将らの多くは、斎藤高政(斎藤義龍)に味方したと言う事ですので、斎藤道三の求心力が低下していたことが伺えます。
斎藤道三はこの戦いで敗れ、命を落としました。
この戦いは、父と息子の間の深い亀裂を表すものであり、戦国時代の権力闘争の激しさを象徴しています。
道三の死は、美濃国における斎藤家の権力の終焉を意味し、戦国時代の歴史における重要な転換点となりました。
彼の死後、美濃国は他の大名の勢力によって再編され、戦国時代の歴史が新たな局面を迎えることになりました。
遺産と影響
斎藤道三は戦国時代において重要な役割を果たした人物であり、彼の遺産とその影響は、後の時代にも大きな意味を持ちます。
彼は美濃国を統治し、多くの政治的及び軍事的な変革をもたらしました。
斎藤道三の遺した遺産は、戦国時代の他の大名や後世の日本に対しても影響を与え続けています。
斎藤道三の戦国時代における遺産
斎藤道三の最大の遺産は、美濃国の統一と近代化です。
彼は、地域の統治体制を確立し、税制を整備することで、美濃国を安定させ、経済的にも発展させました。
さらに、彼は岐阜城の建設にも着手し、それは後に織田信長によって引き継がれ、日本統一の拠点となりました。
道三のこれらの取り組みは、戦国時代の政治と社会構造に大きな影響を与え、日本の歴史における重要な転換点となりました。
後世における評価と影響
斎藤道三は、戦国時代の「成り上がり」武将として広く知られ、その評価は時代を超えて多様です。
彼は、狡猾で計算高い政治家として描かれることもあれば、強力な統治者として尊敬されることもあります。
また、彼の生涯と業績は、多くの文学作品やドラマに影響を与え、日本文化における重要なテーマとなっています。
斎藤道三の遺産は、日本の歴史、文化、社会において、引き続き大きな意義を持ち続けています。
まとめ
戦国時代に美濃国を統治した斎藤道三の生涯を綿密に追いました。
油売りから大名へと昇りつめた彼の物語は、当時の政治的複雑さを映し出しています。
そんな彼の辞世の句がこちらです。
この句は、斎藤道三がこの世のすべてを捨て去ったこと、そしてこれから彼が行く先(死後の世界)についての不確実性や疑問を表現しています。
一介の油商人から権力闘争を勝ち抜き、歴史人物ととして後世に語り継がれ、最後には息子の反乱で命を落とした斉藤道山。
そんな彼の死の直前の句がこの世の「物への執着」ではなく死後の世界への疑問だったのです。