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山本道鬼ーマカレー
山本道鬼って誰?と思う人も多いかもしれません。その辺りはおいおい。
時々、食べたくなる印度飯。ということでキーマカレー。
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大豆肉粒状 好きなだけ
大蒜 1欠け
生姜 1欠け
玉葱 半分
ローレル 1枚
唐辛子粉 小匙半分
片栗粉 適量
クミン粉 大匙1
コリアンダー粉 大匙1
ターメリック 大匙1
ガラムマサラ 小匙1
黒摺り胡麻 適量
塩 少々
黒胡椒 少々
黒酢 大匙1
出汁つゆ 50ml
名前は有名でも、実在したのか?と疑問に思われる人物がいます。
武田信玄の軍師、山本勘助もそうでした。しかし、発見された文書に名前が出てくることにより、実在したのは間違いないと証明。
三河若しくは駿河の出身と言われる山本勘助、出家後の道号は道鬼。ということで山本勘助を妄想しながら料理開始。
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生誕地がはっきりしていないことかも窺える通り、武田家に仕える以前の山本勘助の前半生はよくわかっていません。
20歳或いは26歳の頃とも言われますが、廻国修行中の新陰流の祖、上泉秀綱の弟子と立ち合い、優勢だったといいます。
勘助は京流の剣術を会得していたとか。
ただ、この話、上泉秀綱が諸国を巡っていた時期と合わないと言われ、伝説に過ぎないとも言われます。しかし似たようなことがあったのではないかと妄想。というのも勘助は隻眼、片脚も不自由で全身に無数の傷があったと言われています。この時に妬まれて袋叩きに会ったのが原因?
これ以降、故郷を出奔。
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仕官先を求めて、また諸国の情勢を探るために放浪或いは武者修行というべきか、遠く九州や四国にまで足を伸ばしたとか。この間、十年。どうやって飯食ってたんだろう?
天文五年(1536)に勘助は駿河に姿を現す。この辺りからぼんやりと山本勘助の動静が見えてくるように。
目的は駿河の今川義元に仕官するため。
勘助が駿河出身だったとすると、故郷の殿様に仕えたいと望んだということになる。三河出身だったとしても、今川の勢力はそこまで及んでいたと考えれば同じこと。
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庵原忠胤の屋敷に寄宿して仕官運動。どういう伝手?血縁とか知り合い?しかし勘助の望みは叶えられず。
風采の上がらない色黒な小男で隻眼、脚も不自由で醜い。齢も三十を超えているということで相手にされなかったようです。
それでも行く所もなく、駿河に九年又は七年?
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転機は思わぬ所から。甲斐の武田家の重臣、板垣信方が駿河に居る諸国の事情や兵法に通じた牢人、山本勘助の噂を聞き、若き当主、武田晴信に推挙。
これにより長い牢人生活に終わりを告げて、甲斐に赴き、武田家に仕官。
山本勘助の生年は明応二年(1493)とも明応九年(1500)とも言われますが、この時は天文十二年(1543)なのでもはや四十代或いは五十過ぎ。人間五十年と言われた時代ですから正に元祖、中高年の星。
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山本勘助の諱は晴幸。晴の字は晴信から拝領と言われます。それだけ信頼された?ただ、晴の字は元を正せば将軍,足利義晴からの偏諱。それを家臣に与えるのは考えにくいという研究者もいます。
ただ、武田家に仕えてから勘助は快進撃。信濃侵攻が開始されると九つの城を落城させる。諏訪郡攻略で諏訪頼重の妹を側室にするよう強く主張。
恨みを抱いている姫を側室になど、とんでもないと他の家臣は反対。しかし勘助の思惑は、晴信と姫の間に子が出来れば、その子に諏訪家を継がせれば武田と諏訪の絆が強くなるということにあり。
狙い通りに生まれたのが諏訪四郎勝頼、後の武田勝頼。
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戸石城を攻めた時、戦上手の村上義清の猛攻に武田勢は壊滅寸前。しかし勘助が献策した陽動作戦により逆転。この戦法は後に「破軍建返し」と呼ばれることに。
この功績で足軽大将に出世。
動く挿絵として、戸石城の動画をどうぞ。↓
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武田晴信が出家して、武田信玄となると多くの家臣もこれに倣いました。
勘助もこの時に出家。これにより山本道鬼。
この後も、川中島に海津城を築く縄張りを行うなど、勘助は武田家に大きく貢献。
自分を受け入れて厚遇してくれた信玄への恩に十分に報いたと言えます。
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使用した唐辛子粉が結構、辛いので卵を乗せることでマイルドになります。
肉は使用していないけど、大豆粒と微塵切り玉葱で十分にキーマカレー。
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カプサイシンたっぷりな唐辛子を少しマイルドに頂けます。スパイスたっぷり。生姜もたっぷりで体が温まります。摺り下ろしと微塵切りと玉葱たっぷりなので、血液サラサラ効果もばっちり。
越後に逃れた村上義清が上杉謙信に領土回復を頼んだことから始まったのが川中島の合戦。
睨み合いが多かった川中島。都合6度。しかし、ガチンコに武田、上杉両軍がぶつかりあったのが第四次川中島合戦。八幡原の戦い。
この時、勘助は啄木鳥の戦法を献策。
妻女山に陣取る上杉勢に背後から奇襲を掛けて、八幡原に追い込んで、包囲殲滅を狙った。
しかし敵は軍神とも呼ばれた上杉謙信。山の上から武田の陣地を見て、炊飯の煙が上がっていることから兵糧の準備であり、奇襲があると察知。密かに下山。当日はひどい霧で、霧が晴れるといきなり前面に武田勢。壮絶な遭遇戦となりました。詳しくはこちらへ↓
策を見破られて、味方を危険に晒してしまった自責からか道鬼こと勘助は奮戦。全身を槍で貫かれるという壮絶な最後。首級も取られてしまいました。
永禄四年(1561)なので、この時は満61歳又は68歳。
予想することをヤマを張るとか、推量することをヤマカンと言いますが、これは山本勘助の名前から来ているとか。
後半生から人生を輝かせて、自分を認めてくれた武田信玄のために全力を尽くした道鬼こと山本勘助を妄想しながら、三変化した山本道鬼ーマカレーをご馳走様でした。