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ジラ或る阿呆の一生
中学生の時、芥川龍之介を読み耽った。
『蜘蛛の糸』や『鼻』等のよく知られた初期の作品もいいが、若過ぎる晩年の陰鬱な作品に惹かれる所があり、死後に遺稿として見つかった『或る阿呆の一生』の読書感想文を夏休みの課題に提出。↓
作者の死後70年で著作権は消滅するので、昭和二年(1927)没の芥川龍之介の作品はとっくに期限切れで青空文庫でいつでもネットで読める。いい時代になったと感謝しながら、久し振りに読んでみた。
ということで、じゃがいもをスパイスで炒めた料理、ジラアルを作りながら芥川龍之介を妄想した記録。
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ジャガイモ 3個
クミンシード 大匙1
シュレッドチーズ 好きなだけ
塩 小匙1
明治二十五年(1892)東京の新原家に誕生。辰年の辰月辰の日、辰の刻に誕生。正に辰の落とし子か?ということから辰=龍ということで龍之介と命名される。
龍之介が七ヶ月になった頃、母が精神疾患。とても育児は無理ということから母の実家、芥川家に引き取られて養育される。
芥川家は江戸城の奥坊主を勤めた家。将軍や諸大名に茶の接待や指導を行う家柄で文学や芸術の家。
十一歳の時に母が亡くなり、父は再婚して男児を得たが、芥川家には子がなかったので龍之介は正式に養子となり、芥川龍之介となった。
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學業優秀だった龍之介は無試験で高校へ、同期入學者には菊池寛。後に文藝春秋社を起こす人物。
そこから東京帝國大学へ進学。菊池らと同人誌を発行。作家活動開始。
大正四年(1915)に『羅生門』を芥川龍之介名義で発表。
この頃、夏目漱石は『木曜會』という作家や作家志望者の會合を開いていて、龍之介もそこに出入り。
龍之介の『鼻』を読んだ漱石は激賞。大きな自信を得て、作家活動へ邁進。
帝大卒業後、海軍機關学校の英語教官を二年勤めて、大阪毎日新聞に入社。
記者ではなく専属の小説家という役割。小説を寄稿するのが仕事で出社する必要なしと恵まれた環境で意欲的に執筆を続けて結婚。正に順風満帆な人生。
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大正十年(1921)海外視察員として中國を訪れたが歸國後、神経衰弱や腸カタルを発症。心身ともに病んでいく。
中國で何かあった?
それまで『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』や中國の説話等に題材を採った小説が多かったのだが、私小説風な作品が増加と作風にも変化。
この頃、三人の息子が次々と誕生しているが『或る阿呆の一生』にて、この子はどうしてこの苦しみに満ちた世界に誕生したのだろうかと記述。
厭世的な傾向や普通ではない行動が見え隠れ。
關東大震災の被災地を快活に喋りながら飛ぶように歩いていたと川端康成が証言している。
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胃潰瘍や不眠症も発症。湯河原で静養。
孤独に闘病していたという風ではなく、それなりに社交的で堀辰雄、川端康成、斎藤茂吉等々と交流。
谷崎潤一郎と文学論争。
話の面白さを重視する谷崎に対して、龍之介は話らしい話がない文章自体の面白さが重要と主張。その名手として志賀直哉を挙げていた。
『或る日の大石内蔵助』という短編を龍之介は書いているが、これは討ち入り後、細川家に預けられている内蔵助の何事もない日常を描写。正に話らしい話がない小説。あの忠臣蔵の大石なのに、吉良邸討ち入りという盛り上がる場面を無視。見事に自説を体現。
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昭和二年(1927)義兄が保険金詐欺の疑いを掛けられて自殺。
遺族の世話や生活の面倒が龍之介に圧し掛かってくる。
晩年の私小説的短編『歯車』にもそれが描かれている。
『或る阿呆の一生』でも追い詰められた末に首を括ろうと考えた描写。
ところで龍之介はよくモテていたようで、様々な女性と關係があったことを仄めかす記述が自伝的な短編である『或る阿呆の一生』には散見。
それを裏付ける一つが、秘書の女性と帝國ホテルでの心中未遂。
そして昭和二年七月二十四日未明、自宅で服毒自殺。享年は三十六歳。
一般的に睡眠薬の過剰摂取とされているが、青酸カリを用いたという異説もある。
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遺書には「将来へのぼんやりとした不安」が死を選ぶ原因と記されていた。
未発表の遺稿だったのが『或る阿呆の一生』
「よかったですね」と妻は龍之介の遺体に語り掛けた。精神的に追い詰められている様子を傍で見ていたからの言葉。
菊池寛は親友の名を冠した『芥川賞』を創設。現在でも純文学の登竜門として続けられている。
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母親が精神疾患を患ったことから、自身もいつか発症するかもしれないという不安が常に龍之介に付きまとっていたことが自殺の一因だったという解釈はよく聞く。
それ故の幻視だったと一般的に思われることですが、目の前に歯車が現れるということを作品に書いています。それが『歯車』という作品の由来。
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クミンの香ばしさと味わい、少しの塩気で十分に美味しい。シンプルなスパイス料理であるジラアル。
そこにチーズを混ぜて絡ませることでタンパク質を加えて、食べ応え十分な料理にした。
ホクホクしたジャガイモからビタミンC、クミンには食欲増進や消化促進、抗酸化作用もある。アンチエイジング食材。
ドッペルゲンガーという現象。
ドイツ語で二重に歩く者という意味。
世の中には似た人間が三人いると言われることがありますが、似ているどころかまったくの同一人物がドッペルゲンガー。
龍之介も自身のドッペルゲンガーを見たと語った。
「一度は帝劇、二度目は銀座」
それだけではなかったかもしれない。
作中では歯車と表現されているが、本当はドッペルゲンガーのことではないか?ドッペルゲンガーを見た者は死ぬと言われる。
我々が存在している以外にも多くの世界が存在。所謂、パラレルワールド。
その境界は曖昧で時々、重なり合う。すると別世界の人物がこの世界に重複。
人生は選択の連続。あの時、ああしていればとか別の道を選んでいればと思うことはよくあるが、別の道は存在。
別の選択をした自分が存在していて、世界はその時に分岐して増えていく。自分の選択だけではなく他人の大きな選択に巻き込まれた世界の自分も存在。世界はこうした多重構造。
世界が重なった時に別世界の自分と出會ったら、それぞれの世界の整合性が取れなくなるために両方が消滅。
芥川龍之介もそのために死への道を選ばされた?
そんな妄想をしながら、ジラ或る阿呆の一生をご馳走様でした。