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甘酒井忠清
群馬県前橋市の銘菓、下馬将軍。
添加物は入っていない。原材料は小麦粉、砂糖、鶏卵のみという素朴な煎餅。
名前の由來は四代目前橋の殿様、酒井忠清の異名から。
江戸城の門近くには下馬札。ここから先は将軍のお住まいなので馬から降りて、徒歩で入るべしという木札。この形を模しています。
酒井家の上屋敷が下馬札の前にあり、更に忠清は大老にまで昇り、権勢を振るったことで『下馬将軍』と綽名された。
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前橋城主、酒井家の菩提寺である龍海院に酒井忠清は酒井家歴代と共に眠る。
ということで下馬将軍に合いそうな飲み物を料理しながら、酒井忠清を妄想した記録。
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酒粕 60g
水 400㎖
黒糖 大匙2
シナモンパウダー 一つまみ
酒井家とは三河以來の徳川家譜代家臣。というよりも同族と言っていい。
德阿弥という遊行僧が三河國(愛知県)の松平郷にやって來て、酒井家の娘と婚姻。還俗して松平親氏と名乗ったのが徳川氏の遠祖である松平氏の始まり。
その後、それぞれの当主が名乗った通称から左衛門尉家(さえもんのじょうけ)と雅樂守家(うたのかみけ)という二つの系統に酒井家は分かれた。
徳川四天王の一人として知られる酒井忠次は左衛門尉家。その子孫は庄内の殿様に。
今回、俎上に乗せている忠清は雅樂守家。
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徳川家康が關東を領有した時、雅樂守家は前橋城主に任じられた。
平和な江戸時代になると雅樂守家からは幕政を担う人材が輩出。
雅樂守家の長男として寛永元年(1624)江戸の酒井家屋敷に誕生した熊之助が後の酒井忠清。
祖父の忠世、父の忠行が寛永十三年(1636)に相次いで亡くなったために翌年に家督相続。この時、十四歳。
三代将軍、徳川家光の跡を継いだ四代将軍、家綱に重用されて幕政を主導。
奏者番、老中、ついには大老へと昇進を重ねて権勢を振るった。
その権力を握った様子から『下馬将軍』と呼ばれるようになった。
家綱は『左様せい公』と綽名された将軍。家臣から進言があると「左様にせい」と答えることが多かったから。幕末の毛利敬親が『そうせい候』と呼ばれたのと同じ。
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家綱に信頼された忠清は、それまでの武断政治から文治政治への転換に大きく貢献。
具体的には殉死を禁止。
何かと荒っぽい戦國時代には主君が亡くなると、重用されていた家臣が切腹して後を追うことがあった。
また、この頃に多くの大名家で起こった御家騒動を多く調停。
伊達騒動や越後騒動等々。
戦國時代では御家騒動と言えば、家中が二つに割れて血を血を洗う戰闘。しかし、もうそういう時代ではないとして話し合い解決を図り、最終的には幕府が裁定する前例を作った。これにより戰を未然に防ぐだけではなく幕府の権威も大きく高まった。
上洛した時、東山に物乞いを救う小屋が建てられているのを見た忠清は
「物乞いを救う小屋を建てるのが仁政ではない。そもそも物乞いが生まれない世の中を作ることが眞の仁政である」と語った。
この逸話からわかるように下馬将軍という綽名からイメージする権力欲に取りつかれた人物ではなく、どちらかというと善政を心掛けていた。
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非常に早口な人物だったと言われる。
早口でまくし立てて、己の意見を通す。そんな人物だったのかもしれない。
笑い上戸で芸能を好んだとも。
大老にまで昇り詰めた忠清ですが、将軍家綱が亡くなった時、思わぬことを主張。
跡継ぎがいなかった家綱の跡目は朝廷から親王を迎えて、宮将軍を擁立すべしという意見。
鎌倉幕府が三代実朝で直系が途絶えたために宮将軍を迎えた故事に倣うべしということ。
このことから忠清は鎌倉幕府を牛耳った執権、北條氏のような位置に就こうと画策したと言われる。
鎌倉幕府とは異なり、徳川家には御三家という血のスペアがあり、更に家綱には綱吉という弟がいたので無理筋な話。水戸黄門こと徳川光圀や他の老中から猛反対をくらう。
最終的には当時、舘林城主だった綱吉が五代将軍に就任。これで忠清の時代は終わり、大老から解任。
翌年である延宝九年(1681)に隠居、享年五十八歳で死去。
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隆慶一郎の小説『かくれ里苦界行』では興味深い説。
忠清は徳川家康が影武者とすり替わっているという事実を知り、一種の恐慌状態を起こして宮将軍擁立を言い出したという。
徳川家とほぼ同族と言っていい酒井家の出身である忠清にとっては、実は主君は素性知れない者の子孫に入れ替わっている等、耐え難いことだった?
私も徳川家康が入れ替わっているという説は十分に有り得ると思っています。
しかし私は将軍継嗣候補だった綱吉と何等かの確執があったのではないかと考えています。
前橋も館林も同じ上野國。何かと風評を聞いていたのかもしれない。綱吉は将軍に相応しくないと考えて宮将軍擁立という横槍を入れたということも考えられる。
忠清と綱吉に接点がないかと考えたら、同じ上州の沼田眞田家の改易に少し絡んでいた。詳しくは↓
平たく言うと、沼田の眞田家は館林藩領から無断で木材を切り出していた。
最終的に眞田家は改易になりましたが一時、忠清は眞田家を擁護するような裁定をしていたのが綱吉には氣に入らなかった?
忠清も綱吉が将軍になったら報復されるのを恐れた?
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忠清の死後、綱吉は忠清は病死ではなく自分への当てつけで自害したのではないかと疑い、遺骸を改めよと命令。しかし酒井家や縁戚に当たる藤堂家はこれを拒否。結局、前橋で荼毘に付されたので検死は叶わず。
また、忠清が裁定した越後騒動を自ら裁定し直し、忠清の決定を覆した。何やら執念めいている。
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甘さ控えめだが、シナモンを振りかけたことで甘い香が楽しめる。
シナモンには抗酸化作用があり、毛細血管の老化を防止してくれる。
カリウム豊富でむくみ改善。
體を温める効果もあり、酒粕も同様の効果があるので正に冬に飲むべき。
下馬将軍はかなり硬い菓子。歯が弱い人にはお勧め出来ないが、美味い。
結局、忠清が自害したという証拠もなく、綱吉は忠清の弟で伊勢崎に支藩を作っていた忠能を改易するという処置。せめてもの腹いせ?
或いは検死を拒否したことへの報復か。
大老、酒井忠清と将軍綱吉の間には上州繋がりで何等かの遺恨や暗闘があった?そんな妄想を楽しみながら、甘酒井忠清をご馳走様でした。