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ヴィーガンマ吉川英治
剣豪と聞くと多くの日本人が思い浮かべる人物は宮本武蔵。
歴史に興味ない人でも名前位は聞いたことがあるレベルにまで武蔵を有名にした国民作家を妄想しながら、主に植物性原料でマヨネーズっぽい物を作った記録。
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白味噌 大匙5
練り胡麻 大匙5
豆乳 大匙5
酢 大匙3
蜂蜜 大匙1
明治二十五年(1892)現在の行政区分だと横濱市になる根岸に誕生した吉川英次(ひでつぐ)が後の吉川英治。
吉川家は小田原藩士でしたが、そんなに高禄の侍でもなく足軽クラス。
父親は横濱で貿易の仲買会社を経営。
女中もいる結構な御屋敷住まいのお坊ちゃん。
自伝『忘れ残りの記』によると、一人の女中に辛く当たったことがあったと反省と共に追憶。
十歳の頃、父が共同経営者とのトラブルを起こして裁判で敗訴、刑務所入りすると家運が傾き始める。
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その頃から雑誌に作文を投稿、入選する文學少年でしたが当時の夢は競馬の騎手。後年、馬主になったのもそれが影響しているのかもしれない。
英次には異母兄がいましたが、兄と父が確執。小学校中退を余儀なくされ、まだ子供ながらも実社会に放り出される。
ドッグの船具工、釘工場、蒔絵職人等、様々な職業を転々。
そうした生活の中、川柳を捻ったり、相変わらず小説を投稿。
当時の筆名は吉川雉子郎(きじろう)
講談倶楽部に投稿した『江ノ島物語』が一等入選。
その後も懸賞小説への入選が続き、東京毎夕新聞に入社。
文才があると認められた?
新聞紙上で『親鸞記』を執筆していましたが、関東大震災で新聞社は解散。
これが契機になったのか、執筆専念を決意。
翌年には結婚。定職もなく作家としてやっていけるかも未知数なのに思い切ったことです。
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胡麻の風味と白味噌と蜂蜜の甘味、酢っぱさが程よくブレンド。
優れた抗酸化物質であるゴマグリナンやセサミンをたっぷりと頂ける。
豆乳からタンパク質と、これだけでも栄養たっぷり。
『釼難女難』を連載した時、本名で発表しようとしたのですが、誤植で英次が英治となっていた。本人はそれを気に入り以来、吉川英治を筆名に。
阿波の殿様、蜂須賀重喜の蟄居事件を背景に書いた傳記小説『鳴戸秘帖』が映画化もされ、大ヒット。
一躍、人氣作家へ。
しかし巨額な印税が入ったことからか、妻がヒステリー氣味に。人間、成功しても悩みは尽きない。
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直木三十五という作家。今や作品よりもその名を冠した文學賞の方が有名ですが、昭和七年(1932)に宮本武蔵は強い敵からは逃げ回り、弱い奴とだけ戰った偽物の名人だと主張。
これに嚙みついたのが菊池寛。
武蔵は優れた水墨画も遺し、書いた『五輪書』は現代にも通じる哲学とも言える。釼にも優れた本物の名人だと反論。
「お前はどう思う」とばかりに直木は英治にも水を向ける。
即答を避けていた英治が、この問いに対する自分なりの答えとして発表したのが『宮本武蔵』
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それまで狒々退治とか姫路城に巣くう刑部姫という妖怪を退治したとか伝説めいた人物とされていた宮本武蔵を、釼を思索の糧として靑春と人生をかけて自分を磨いていくビルディングロマンの主人公として造形し直した。
軍靴の響き高まる世相にマッチしたのか、小説は大ヒット。
連載中に離婚、再婚と私生活も変化。
宮本武蔵の大ヒットで国民的作家として認知され、仕事の依頼は引きも切らず。
元々、英治の作風は傳奇、つまり奇想を傳える物。一応の史実を基にしていてもかなりの割合で史実とは異なる記述。
例えば、宮本武蔵の幼名は『たけぞう』ではなく辨之助。
幼馴染の又八やお通は架空の人物。作品中で師となる澤庵と武蔵は面識があったとは思われない等々。
誤解して欲しくないのですが、だから小説は駄目だと言っているのではありません。こうしたフィクションが含まれているからこそ読みやすく、文学的価値も高まったと思います。
ただ、そうした所が通俗小説の書き手と見做されて、藝術院入りは認められず。私は小説や文学は面白くて何ぼと思っているので、やたらと高尚ぶるのもどうかと思うので、それでよかったと思います。
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戰時中にはペンの部隊として中国戰線を取材したり、海軍の軍史編纂等に協力。
その反動からか、戰後は筆を折る。
多くの人々が戰争協力者と見做され、場合によっては戰犯として裁かれたが、幸いにも吉川英治はそうならなかった。世の中の急激な変化も書けなくなった理由かもしれません。
絶筆期間は二年に及びましたが、菊池寛の誘いに応じて執筆再開。
戰後の吉川英治を代表する大作は『新平家物語』
敗れて滅びていく平家一門を大日本帝國に準えた作品で連載は七年に及んだ。
淸盛の若い頃から始まる大長編を読み終えた時、私も達成感を覚えたものです。
新平家物語で描き切れなかった権力の魔を表現したいという構想で始まったのが『私本太平記』
他にも多くの歴史小説を世に送り出した。
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少量の山葵を混ぜ込むと、更に風味がよくなる。
「我以外、皆、我が師なり」というのが吉川英治の座右の銘。
子供の頃から様々な職業を経て、様々な人々と接してきた英治らしい言葉。
「働いた俺にはあるぞ、夏休み」と書かれた色紙を見たことをぼんやりと記憶。もしかしたら細部の言葉は違っているかもしれませんが、勤勉であろうとした吉川英治の人柄が滲み出ている。
『宮本武蔵』の作中、武蔵は後に養子とする少年、伊織と共に法典ヶ原で開墾。これはまったくのフィクションなのですが一時、史実のように扱われた。
誤解を生むこともあるが、優れたフィクションのお陰で歴史や人物の研究が進むという側面もある。
研究が進んだ結果、伊織は武蔵の甥であるとか、作品中では西軍に属していた武蔵は実際はどうやら東軍、黑田如水の陣中にあり、九州で戰っていたらしい等も判明。
史実や研究にも影響を与える優れた作家であり、戰前、戰中、戰後と多くの作品を生み出して日本人を魅了した国民作家、吉川英治を妄想しながら、ヴィーガンマ吉川英治をご馳走様でした。