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あんバター佐渡守
ライ麦パンを購入。
しっかり、どっしりした硬さ。これが本物のパンなのでしょう。〇マザキの〇ソフト等は不自然に柔らか過ぎる。何が入っているのか?
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小麦粉ではないので、よしりんも大目に見てくれるでしょう。と勝手な理屈をつけて、これを使って料理しながら、徳川家康が家臣というよりも友のように思っていたとも言われる人物を妄想した記録。
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ライ麦パン 好きな厚さに切ってぬ
バター 好きなだけ挟むがいい
自家製アンコ 好きなだけ塗ったくれ
アンコの作り方は以下参照。↓
そうです。アンコを作ったものの、これだけ食べるのも味気ないので、消費するための無理矢理な料理。
何を作るのかというと、最近、流行っているのか?あんバターサンド。
サンド、さんど、さど、ということで佐渡といえば佐渡守。本多佐渡守正信を妄想しながら料理開始。
天文七年(1538)に生まれた本多弥八郎が後の佐渡守正信。
本多家には二つの大きな系統。弥八郎系と平八郎系。当主がどちらの通称を名乗るのかという違い。
家康の時代の弥八郎が正信。平八郎が忠勝。
本多忠勝については、こちらをどうぞ。↓
平八郎忠勝や榊原康政と言った武臣達からは正信は非常に評判が悪い。
「佐渡の腰抜け」とか「はらわたの腐れ者」と散々な評価。
これは正信が槍働きよりも内政とか経理とかの仕事を主にしていたから、命を懸けて働いている者からすれば、頭と口だけで生きている奴のように見えて、気に障ったということでしょう。
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正信が槍働きをしなかったのには、実は理由があった?
今川義元が討ち取られた桶狭間の合戦に正信も参戦。この時の負傷が元で歩行が困難になったという話。そのため、以後は鷹匠として家康に仕えていたと言います。
従属していた義元が亡くなったことで、松平元康、言うまでもなく後の家康は自立の道へ。
その家康に内側から巻き起こった困難が三河一向一揆。
三河の一向宗寺院が、守護不入の地という特権が与えられていた寺院に年貢を課税したとか、寺院に入った無法者を捕縛するために、酒井家の者が入り込んだのが特権の侵害とされたとも言われ、発端ははっきりしない。
とにかく、三河国内の一向宗徒が領主である松平家に反抗を始めた事件。
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家康の家臣の中にも一向宗の信者が多く、本多正信もそうでした。結果、正信は一揆側について家康と戦う道へ。
一揆側が敗北後、正信は三河から逐電。諸国放浪。
松永久秀に仕えたと言われています。
その久秀は
「徳川の侍の多くは武勇一辺倒だが、正信は剛でも柔でもない。卑でもなく非常の器」と評価。
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旧知の仲だった大久保忠世の取り持ちで、徳川家に帰参。
時期がいつだったのかははっきりせず。
姉川の戦い前後とも本能寺の変直後とも言われます。
本能寺の変で信長が消えてしまうと、伊賀超えの苦難を経て国元に戻った家康は、旧武田領の甲斐、信濃へ出兵。織田家の支配が確立していなかった地を領土に組み込むため。
同じことを考える大名は多く、北条、上杉らもこの地に触手を伸ばしてくる。天正壬午の乱と呼ばれる争乱。
この時に正信は大きな活躍。
潜んでいた武田家の旧臣達に声を掛けて回り、徳川家に仕えるように説く。
奉行に任じられて、甲斐、信濃の統治を任される。
家康が秀吉に臣従すると、有力な家臣にも官位や官職が与えられ、その時に正信にも従五位下佐渡守の官位官職が授けられて、本多佐渡守に。
家康が関東に移封になると、正信は相模玉縄城主となり、一万石の大名に。
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関ケ原の戦いが起こると、正信は中山道を行く秀忠軍と共にありました。
真田昌幸、信繁親子が守る上田城を攻める秀忠に、そこは無視して先を急ぐべきと進言したが、なかなか聞き入れられず。結果、秀忠が率いていた徳川本軍は関ケ原合戦には間に合わず。
このことがあったからか、正信は徳川家の跡継ぎは次男の結城秀康を推していたとか。
それでも秀忠が跡継ぎと決まり、二代将軍になると決まってからはしっかりと補佐。
関ケ原の後始末で、家康が頭を悩ませたのは石田三成の子、重家の処遇。
敵の大将の子ですから、禍根を経つためには殺すしかない。しかし重家は出家していた。家康は正信に相談。
「重家の父、三成は徳川家に大きな貢献をしたのですから、赦免する理由があります」との答え。
「貢献とは何か」
「関ケ原という無用な戦を起こして、徳川家の天下を定めてくれました」
この答えに納得して、重家にはお咎めなし。
無用な殺生を避ける頓智か?
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硬いライ麦パンのしっかり食感がよい歯応え。焦げ目が香ばしい。
ドラゴンフルーツの風味がある自家製アンコにバターの塩気がよい組み合わせ。
ライ麦はグルテンフリー、ビタミンBや食物繊維も普通の白いパンよりも豊富。硬いので噛む回数が多くなり、少量でも満足感が得られる。
関ケ原後、家康に征夷大将軍の宣下が降りるように朝廷との交渉を担当したのが正信。
金山や銀山の管理をしていた大久保長安が不正蓄財していたという大久保長安事件の摘発に関与したと言われる正信。そうだったら、自分が帰参出来るように計らってくれた大久保一族でも容赦しなかったということになる。
現在、京都には東と西の本願寺。本願寺を二つにして分裂、弱体化させるように図ったのも正信と言われます。
家康が何かを相談すると、正信は反対の時には居眠り。賛成の時には多いに賞賛したとか。意見を戦わせるようなことはなかった。
大久保事件や本願寺の時はどっちの反応を示したのか?そんなことを妄想しながら、あんバター佐渡守をご馳走様でした。