小林一茶碗蒸し
福岡出身ながら知らなかったのですが、茶碗蒸しの雑煮を食べる地域があることを桜子さんコメントで知りました。
私が住んでいた地域の雑煮はすまし汁に丸餅でした。試してみたくなったので茶碗蒸し雑煮を作りながら、俳人の生と性について妄想した記録。
餅 好きなだけ
百合根 三切れ
三つ葉 一株
大根 餅の数だけ
蒲鉾 好きなだけ
卵 2個
出汁つゆ 卵の三倍量
百合根を茶碗蒸しに入れると美味しいというコメントも頂いたので、これも試してみる。
el faroさん、コメントありがとうございます。茶碗蒸しに百合根を試します。
宝暦十三年(1763)に信濃国(長野県)柏原に生まれた弥太郎が後の小林一茶。
中農の家に生まれたのですが、二歳の時に実母が死去。祖母に育てられる。
七歳の時に父が再婚。異母弟誕生、祖母も他界すると弥太郎を取り巻く家庭環境は急速に悪化。
実子に跡を継がせたいと思うのは人情。継母は自身が生んだ子を可愛がり、弥太郎に辛く当たる。寺子屋で読み書きと共に俳句も学んだ弥太郎でしたが、継母は俳句など農家の役に立たないとして、そんなことより子守や田畑の手伝いを押し付ける。
父親はどうも尻に敷かれていたのか、本来、跡継ぎであるべき長男の弥太郎を江戸に奉公へ出す。以後十年間、奉公先を転々としながら弥太郎は他人の中で生きていく。
寂しく苦しい生活だったようで、それを思わせる句。
『梅が香や、誰が来ても欠け茶碗』
そんな生活の中で俳諧が心の支えだったと思われる。
二六庵竹阿という俳人から指南を受けて、やがて二十五歳の時に俳諧師として認められるようになり諸国を歩き、俳句の手ほどきなども行うようになっていく。
三十七歳の時に師の跡を継いで俳諧宗匠となる。
こうして俳諧によって不安定ながらも生計を立てる。
『やれ打つな、蠅が手をする足をする』
『猫の子がちょいと押さえる落葉かな』
『我と来て、遊べや親のない雀』
一茶が生涯に詠んだ俳句は2万を超える。様々な題材を選んでいるが、小さな命を見詰めた句に私は味わいを感じる。
『痩せ蛙、負けるな一茶、ここにあり』
の句を詠んだと言われる場所が長野県小布施にある岩松院。
三十九歳、柏原に帰郷した時に父親が倒れる。一茶はそのまま故郷に留まり、父を看病。父は異母弟の仙六と一茶で土地を分割相続させることを提案。継母と弟は激怒。これまで土地を守ってきた自分達が跡継ぎであり、何もしていない一茶に一坪たりとも渡せないと主張。
継母は病の父にさえ冷たい仕打ち。決着が着かないままに父は死亡。以後、13年に渡って土地問題は解決せず。
五十一歳の時にようやく土地問題は解決して、一茶は故郷に定住。翌年に結婚。相手は二十四歳も年下。親子程の年の差。
岩松院で案内の人は一茶のことも話していましたが、
「年の差婚と茶で終わる名前で思い出す人がいませんか?」
と加藤茶と比較。
結婚生活について一茶は記録を遺しています。
一晩三交とか五交とか。つまり夜の交わりの数。
加藤茶ばりに言うならば、
「ちょっとだけよで済まないなんて、あんたも好きねえ」という所で、このことを興味本位に面白おかしく茶化す人も少なくない。しかし私は少し違った見方を持っています。
一茶の記録が本当かどうかは、文字通り闇の中での営みなので当人同士にしかわからないこと。誇張かもしれません。
価値観が多様化した現代と違い、江戸時代の結婚の目的は子孫を残して家系を繋ぐこと。特に一茶は長男で家を遺さねばならないという意識は強かった筈。人間五十年と言われた時代、既に老人と言ってもいい一茶は人生の残り時間が少ない。早く子を成さねばと思っていたのではないか。
又、長らく他人の中で生きてきた一茶は確かな血の繋がりが欲しかった?
頑張った甲斐があり四人の子宝。ところが全員、夭折。
結婚生活九年にして肝心の妻まで若くして死亡。
再婚したものの、折り合い悪く離婚。
文政九年(1826)六十四歳の一茶に再々婚の話。
相手は私生児を連れた三十二歳のやを。年が倍も違いますな。
もはや六十代、実子を諦めて、連れ子に跡を継がせるつもりだったか。この女性、訳アリで一茶の結婚の目的も子作りよりも自身の介護という側面。
卵と出汁つゆの1:3の黄金比は本当だった。うまく固まり、しかも良い味。百合根もホクホクとした蒸し上がり。餅も柔らかく頂ける。
今まで茶碗蒸しと言えば、銀杏が自分なりの定番だったが、百合根もアリだな。しかし野生の百合根には毒があるというし、高カロリーなので食用でも過度に食べると消化器系に負担をかける恐れありとか?
卵と蒲鉾からタンパク質、大根や三つ葉から食物繊維と栄養面も問題なし。
中風を抱えた一茶だが新たな妻を迎え、どうにか跡継ぎになりそうな妻の連れ子という男子を得たのですが、火事に見舞われる。母屋が焼け落ちて土蔵に仮住まい。高い所に明り取りの窓があるだけの薄暗い土蔵にて、小林一茶は六十五歳の生涯を終える。
後妻の連れ子は結局、実父の家に戻るが一茶の死後、後妻のやをは女児を出産。一茶の娘が長じて婿を取ることで小林家は存続。一茶が望んでいた家系を繋ぐ悲願は死後に果たされた。
ここからは蛇足。今時分になってもまだお笑いコ▢ナ劇場。
岩松院を訪れたのは去年の秋。
一茶が蛙の句を詠んだ池、福島正則の墓、葛飾北斎が描いた鳳凰図など見所多し。
受付にて、
「消毒をお願い致します」
とさ。流石にもうマ〇クの強要はなかった。世間ではもうコ▢ナはもう終わっているというのに。(というより最初から、そんなモンはないよ)
うっとうしいから無視して進んでいると、消毒婆はアルコールのペットボトル持って追っかけてきやがった。
『酒の香や、やった振りして、やり過ごす』
一茶には及びもつかない駄句を捻って終わります。