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鮪メンチ葛飾北斎

タタキというと塊肉や魚肉の表面を炙った料理。なのだが魚屋で見たマグロのタタキなる物は刺身を包丁で叩いた物だった。
これを本物のタタキに料理しながら"The greatest artist"を妄想した記録。


材料

鮪のタタキ 1パック
葱     青い所
卵     1個
米粉    適量
粒状大豆肉 適量
油     適量

宝暦十年(1760)江戸に誕生した鐡蔵が後の葛飾北斎。
正確な住所は葛飾郡本所割下水。画号の葛飾はここから取ったか。
母方の曽祖父は忠臣蔵で有名な吉良上野介の家臣、小林平八郎だったという話がある。
生家の川村家は百姓でしたが、四歳の頃に幕府の鏡磨師、中島家の養子に。
当時の鏡は現代のような硝子を使った物ではなく、磨いた金属の表面に顔を映す物だったので磨師が必要。そこでこういう職業も存在。
六歳の頃から暇があれば繪を描いていたという。
そんな風なので浮世繪に魅せられて、十四歳の頃に家を出てしまう。
十八歳の頃、人氣の浮世繪師、勝川春章に弟子入り。


葱を細かく切る。

繪の才能は抜きん出ていたようで、一年後には勝川春朗の名を貰って役者繪で世に出る。
しかし繪以外のことには關心がなく、挨拶もろくに出来ない。今風に言うとコミュ障だったらしく、先輩の妬みを買い、散々に繪を貶されて目の前で破られるなんてイジメも経験。
師が亡くなったのを機に勝川派を離れて琳派に入り、俵屋宗理を名乗る。
宗理時代の代表作が『二美人図』
瓜実顔で富士額という美人画は宗理型と呼ばれて人氣を博した。
宗理と名乗って活動したのは二年程。次いで名乗った画号が北斎。
名前を変えた理由はお金。
よく知られた『宗理』という名跡を弟子に譲って礼金。
繪以外のことに興味がなかったので、金に困っていたようです。
以後、北斎は何度も名前を変えますが、便宜上、ここでは北斎で通します。改名を繰り返したのも礼金を受け取って譲ったというケースが結構、あったのかもしれない。


葱と鮪のタタキを混ぜる。

護国寺で百二十畳の紙に巨大な達磨を描くという催し。
将軍、徳川家斉の御前で靑い紙を広げて、朱を踏ませた鶏を歩かせて、たつた川の風景と称して披露したという逸話。
川の流れに紅葉の葉に見立てた鶏の足跡が点々ということ。
そんな大きな話も傳わりますが、北斎の名前を更に高くしたのは読本の挿絵。特に曲亭馬琴の『椿説弓張月』はかなり売れた。
馬琴については↓

弟子の数も増えていき、全國に二百人。この数は浮世絵の最大派閥だった歌川派に匹敵。
弟子とはいっても北斎自身は自分が繪を描くことが最優先。細かく指導するなど向いていない。口で教えるよりも手本を示した方がいいということで世に出したのが『北斎漫画』
これは現代風の漫画ではなく、人や動物等のポーズ集。繪のお手本帖ということ。


丸めたタタキに米粉を塗して、卵に潜らせてから転がして大豆肉を付ける。

名前も繪も売れるようになっても北斎は繪を描く以外のことには無頓着。
浮浪者かと思われるような身なりで、食事も出前。或いは繪を描き終わった一日の終わりに蕎麦を啜るのみ。
掃除もしないので部屋は散らかり放題。片付けるのが面倒になってくると転居。引っ越した回数は生涯で九十三回。
江戸は火事が多い町だったが奇跡的に免れていたものの、五十四歳の時についに罹災。
すべてを失っても、残った徳利を割って繪皿にして繪を描いていた。
脳卒中を患ったが、自分で調合した柚子茶で回復。
繪を描きたい一心が起こした奇跡?
妻に先立たれると娘のお栄と暮らしたが、娘も父に劣らぬ繪描きバカ。
散らかった家で二人揃って繪ばかり描いていた。
北斎が名前ではなく「おーい」としか呼ばないので、お栄は自身の画号を「応為(おうい)」にしてしまった。


油で揚げる。

出前や配達が來ても繪筆を離さず、財布を投げ付けて必要なだけ持っていけと返答。
歌舞伎役者が自分の繪を描いて欲しいと頼みに北斎宅を訪問。
客が來るというのに掃除もせず、足の踏み場もない。
役者は止む無く敷物を持って來て座る。
「失礼だ」と北斎は立腹。
客が來るのに散らかっているのも失礼と思うのですが。
津軽藩主が屏風絵を描いて欲しいと依頼。家臣が頼みに來ても知らん顔。
相手が大名だろうと氣乗りしなければこんな風。最終的には家臣が面目を失ったので自害すると言い出したので、その家臣の家に押しかけて、あっという間に屏風絵を描き上げて去った。
天保二年(1831)から天保五年(1834)にかけて世に出したのが、北斎の代名詞と言うべき『富嶽三十六景』


鮪メンチ葛飾北斎

鮪のメンチカツという訳。普通に焼いてもバラける恐れがあるので、衣に包んで揚げた。
パン粉ではなく大豆肉を塗してあるので、中身の鮪と共にタンパク質たっぷり。葱のアリシンで食欲増し増し。
鮪に含まれるDHAやEPAという不飽和脂肪酸は脳の血管を良好に保つ。
血中コレステロールを下げ、肝機能向上等も期待出来るタウリンも鮪から頂ける。
敢えて味付けはしていません。このカツにはソースよりも醤油が合う。何しろ中身はほぼ火が通っていない刺身。表面をからっと揚げているだけ。


こういうこと。

外はカリっと中はしっとり。二重の食感。
普通のタタキは表面を炙っていますが、このタタキカツは表面を揚げている。

嘉永二年(1849)に亡くなった時、北斎が遺した言葉は
「天があと五年の寿命を与えてくれたら、本物の繪師になれるものを」
繪のことしか頭にない。そんな人生。享年は八十八だが生年に異説があり九十歳とも言われる。
北斎が晩年に名乗った画号は『画狂老人卍』
正にこの名に相応しい。
北斎が亡くなって四年後に黑船来航。本人が願った通りに後五年の寿命があったら、黑船も描いたことでしょう。

昨年、発行された新千円紙幣には北斎の代表作、富嶽三十六景の一つである『神奈川沖浪裏』の大波が意匠として使われている。
輸出される陶器の梱包材として使われた紙に描かれた浮世絵が西洋で評価され、ジャポニズムと呼ばれるムーブメントを起こしたのは有名。
意外な所では音楽家ドビュッシーが『神奈川沖浪裏』を氣に入り、自分の部屋に飾り、繪から受けたインスピレーションから交響詩『海』を作曲。
楽譜の表紙に、この大波を使った。
この繪は”Hokusai wave”或いは”The great wave”と呼ばれて欧米でも有名。
晩年の北斎はよく信濃(長野県)の小布施を訪れ、岩松院に鳳凰図を遺し、祭の山車に波の繪を遺しているが、この繪は波の表現の完成形というべきか
"The greatest wave"と呼ばれた。
アメリカの雑誌『Life』が1998年に「1000年間に偉大な業績を挙げた100人の人物」という特集。日本人として唯一、名を連ねたのが葛飾北斎。

人は天から与えられた役割を演じている。北斎は多くの繪を描くという天命を早くから悟り、生涯に遺した繪は三万点以上。計算すると一日一枚以上は描いていたことになる。失敗作として世に出なかった繪も含めれば、その数はまだ膨れ上がることでしょう。
日本ばかりか世界にも大きな影響を与えた画狂人を妄想しながら、鮪メンチ葛飾北斎をご馳走様でした。

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