見出し画像

大岡越前蕎麦

奉行所のお白洲に二人の女、間には小さな子。
双方が子供の親と主張して譲らず。訴えを聞いた奉行の大岡越前は
「子の腕を引っ張れ。より強く引いた方が眞の親に相違ない」
女達は子の腕を掴んで左右から力任せに引っ張る。ついに子は泣き出す。
一方の女は思わず手を放してしまう。
勝負あったと思いきや、大岡越前は
「子の痛みを見るに耐え兼ねて手を離した方が眞の親に相違ない」
と裁定。

何でこんな話を思い出したかというと、先日の衆議院選挙で与党自民党と公明党は過半数割れ。俄かに政局のキャスティングボードを握ることになった国民民主党の玉木雄一郎を石破茂首相と立憲民主党の野田佳彦代表が玉木氏の両腕を引っ張るような情勢になったことから連想。
ということで、大岡越前を妄想しながら越前から届いた蕎麦を料理した記録。


材料

越前そば 二人前
そばつゆ 大匙2
大根   好きなだけ
鰹節   一掴み

延宝五年(1677)千七百石取り旗本の大岡忠高の四男として江戸に誕生した忠相が後の大岡越前守。
貞享三年(1686)同族の千九百二十石取り大岡忠眞の養子となる。
元禄九年(1696)従兄弟が人を斬った後、裁きを待たずに切腹という騒動を起こし、大岡一族はそれに連座して閉門。
翌年に許され、元禄十三年(1700)に家督相続。
書院番になったのを始めに使番や目付を歴任。官僚としてキャリアを積む。
正徳二年(1712)に山田奉行に就任。この役職に就いたことが後に大きく運命を変えた。


大根を摺り下ろす。

山田奉行は伊勢神宮周辺の幕府直轄領の支配が仕事ですが、隣接している紀州徳川家と屡々、境界を巡る係争。
相手は德川御三家ということで歴代の奉行は紀州藩に有利な判決をすることが多かったが、忠相は公平に裁いた。
山田奉行の後は江戸に戻り普請奉行等を務めたが、その間に将軍が代替わり。
七代将軍が六歳で病没。当然ながら跡継ぎがいないので御三家から八代将軍が選ばれた。それが紀州から来た徳川吉宗。
忠相の公平な裁きを知っていた吉宗は忠相を江戸町奉行に就任させた。
ここから数々の名奉行、大岡裁きの逸話が生まれた。


蕎麦を茹でる。

冒頭に掲げた話以外にも『三方一両損』『天一坊事件』『白子屋おくま事件』等々。
講談や芝居、現代では加藤剛主演の『大岡越前』でも映像化。
多くは創作の可能性があり、実際に忠相が裁いたのは『白子屋おくま事件』だけだったとも言われる。
白洲でのお裁き以外にも町奉行は多忙。
歴史に残る享保の改革にも忠相は貢献。
町火消の創設や貧民救済のための小石川養生所設立にも尽力。青木昆陽に命じて飢饉が起こった時の救荒植物として薩摩芋の栽培を奨励させた。参考↓


町奉行時代は四十代の働き盛り。


水気を絞った大根おろし、蕎麦、鰹節を混ぜてそばつゆをかける。

ぶっかけ蕎麦ですが、太目でしっかり食感の越前蕎麦に大根おろしの辛みと鰹節の旨味が絡んで、そばつゆもよく合う。
このぶっかけ蕎麦もよかったが、もう一つ変化させます。

約二十年、町奉行として活躍後、大岡越前守忠相は六十代で寺社奉行に転任。
栄転のようですが寺社奉行というのは通常、若手の譜代大名が勤めることが多い役職。六十代で就任は異例。
しかも大岡家は旗本。そこで忠相を抜擢した将軍、吉宗は足高の制度を適用。出世と共に知行も増えていたが、身代は五千九百二十石。一万石以上が大名なので大名並にするために四千八十石を加増された。
但し、これは寺社奉行在任中のみの特例。現代風に言うなら役職手当。
役職に見合う石高を在任中に限って支給するというのが足高の制。世襲と慣例ばかりで硬直化していた幕政に新風を入れるべく吉宗が行った享保の改革の一環。


材料

蕎麦   二人前
大根   適量
ツナ缶  1個
そばつゆ 大匙1
鰹節   一つかみ

通常、寺社奉行は奏者番を兼任。奏者番は大名しかなれないので旗本の忠相は兼任出来ず。奏者番とは諸大名から将軍への進物や進言を取り次ぐ役職。
寺社奉行の詰所に入ろうとすると他の奉行から、
「此処は奏者番の詰所なので入れない」と締め出され、江戸城の廊下をうろうろする羽目に。
息子のような年齢の若手大名達にそんな嫌がらせを受けた。
事情を聞いた吉宗は忠相専用の詰所を用意。そればかりか正式に一万石の領地を与えて本物の大名にした。
町奉行から大名に出世したのは江戸時代でも忠相一人。


短冊切りにした大根を油で炒める。

これだけ厚遇したのも吉宗が忠相が有能だと知っていたからこそ。
嫌がらせに耐え兼ねて一時は進退伺いを出そうかと考えた忠相も吉宗の期待に応えるべく、老骨に鞭打ってもうひと頑張り。
江戸時代の刑法と言うべき公事方御定書の改定や公文書や古文書を収集整理が寺社奉行時代の功績。
当時は寺院が人別帖という戸籍を管理していたので、それを管轄する寺社奉行はそれに纏わる民政や訴訟も扱っていたので御定書の改定も必要だったということ。


茹でた蕎麦、ツナ缶、そばつゆ投入。水分を飛ばしながら炒める。

寛延四年(1751)六月に徳川吉宗逝去。
自分を引き上げてくれた恩人の葬儀を忠相は担当。
十一月に寺社奉行や奏者番の辞任を申請。病勝ちとなり自宅療養したが、主君の後を追うように十二月に死去。


大岡越前蕎麦

正に焼き蕎麦ですが、焼いた大根から水分が出るので思った程、しっかりと焼き目が付かなかった。
鰹節を絡めて水分を吸い取らせ、味わいも加える。
蕎麦に含まれるルチンは毛細血管を強化。ビタミンB等も頂ける。大根から食物繊維も。

吉宗と忠相の関係、御恩と奉公という言葉がぴったりくる。
自分を引き立ててくれた主君と世の中のために力を尽くした。
今の政治家にそういう人物がいるだろうか、冒頭に挙げた石破首相や野田代表も政権維持やあわよくばの政権交代、玉木氏も政権関与。そんな自分達のことしか考えていないようにも見えてくる。そんな妄想をしながら、大岡越前蕎麦をご馳走様でした。



#今日のおうちごはん

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集