高杉晋作ミン大根
スパイス料理を作りたくなった。ということで、消化促進、免疫力向上の効能があるクミンを使った料理をしながら、高杉晋作を妄想した記録。
大根 半分
ターメリック粉 大匙 1
クミンシード 大匙 1
黒胡椒 適量
ガラムマサラ 大匙 1
塩 小匙 1
油 適量
天保十年(1839)に代々、毛利家に仕える高杉家の長男に生まれた晋作は優秀で、藩校の明倫館、吉田松陰の松下村塾で学問を修め、剣術は柳生新陰流に加え、鏡心明智流と文武両道。
現代では優秀な人と言えば、親や先生の言うことをよく聞く従順なよい子ですが、激動の幕末、優秀な人とは自分の軸や考えをしっかりと持ち、それに向かって邁進した人。晋作もそうでした。
日本を守るためには攘夷と倒幕しかないと信じて、それに向かって邁進。
攘夷と言えば、英国領事館の焼き討ち事件。倒幕と言えば、14代将軍、徳川家茂が上洛した時、都に居合わせていた高杉は「いよ、征夷大将軍」と行列に向かって声を掛けたとか。
今のように民主的な世ではない封建社会、全武家の棟梁であり、日本の実質役な支配者というべき将軍を揶揄する声かけなど、不敬であると捕まってもおかしくない行為。晋作の肝の太さと幕府の権威失墜を思わせる話。
高杉晋作と言えば、多くの人が連想するのは奇兵隊だと思います。
江戸時代、戦は武士がするものと決まっていました。晋作が農工商という身分でも志さえあれば参加せよと呼び掛けて結成したのが奇兵隊。
藩の正規兵に対して、奇手というべき軍隊。それで奇兵隊。
武士以外の身分を戦に参加させるという、いわば禁じ手。思い切った奇策。
実は晋作が奇兵隊を率いていたのは三か月。武士の部隊の先鋒隊と奇兵隊がもめ事を起こして、その責任を取る形で晋作は罷免。
当時、長州藩内は二つに割れていました。
幕府に恭順すべしという守旧派。晋作達は攘夷と倒幕を実行すべしという改革派。晋作らは自分達を正義派と呼び、守旧派を俗論党と呼んでいました。
私は正義などという言葉は曖昧なものでしかないと思っています。万人に共通する正義などは存在しない。晋作達が俗論として軽蔑していた恭順派にも彼等なりの長州を守る正義の理論はあったと思います。
俗論党を一掃すべしと晋作は決起。長府の功山寺に集結せよと奇兵隊を始め、諸隊に号令。
しかし奇兵隊は駆けつけず。やって来たのは伊藤博文率いる力士隊等。
この力士隊の一員には、大室寅之助なる人物。後に明治天皇とすり替わった疑惑がある人。
晋作には人を集めて、数の示威、場合によっては戦をしてでも俗論党を押さえて、藩論を攘夷倒幕に持って行く目論み。
藩庁へ向けて進軍するにつれて数は増えていき、当時の奇兵隊総督、赤根武人も重い腰を上げて参加。
太田絵堂の戦いで勝利した正義派。藩内の意見を統一。
ここで現代の話を持ち出すと、悪夢の民主党政権時代、山口県出身の菅直人首相は自らの内閣を「奇兵隊内閣」と呼びました。
しかし奇兵隊とは晋作が中央政府である幕府を倒すために作った部隊。その名前を中央政府の長である総理大臣が名乗ることに違和感を覚えたことを思い出します。
幕末の志士と呼ばれる人々は味わい深い言葉を遺しています。
「おもしろきこともなき世におもしろく」
これが高杉晋作が遺した言葉。
これまで書いた以外にも、晋作の破天荒な逸話はまだまだあります。
攘夷実行として、関門海峡を通る外国船に砲撃を加えた長州藩、英米仏蘭の四か国から報復。講和会議に出て来た晋作は宍戸刑馬と名乗り、古式ゆかしい烏帽子に直垂姿。彦島を租借させろというイギリスの要求に対し、そもそも日本は清国であり、それは出来ないと返答。根拠として古事記を暗誦。これでケムに巻いてしまいました。この席に居たアーネスト・サトウは宍戸こと晋作を悪魔のように傲然としていたと後に述懐。
動けば雷電の如しと晋作を評したのは、伊藤博文。
慶應三年(1867)肺結核のために死去。享年は29歳。
高杉晋作が療養、そして死亡したのは下関でした。
終焉の地の付近は俳優、松田優作が育った地。晋作と優作、何となく私の中では二人のイメージが被ります。
名前が似ているというだけではなく、一方は政治、一方は芸能と生きるフィールドは異なってもエキセントリックな生き方を貫き、優作の方が晋作よりも10年程長く生きてはいますが、若くして死去。
茶色く染まった大根に葉の緑が映える。
大根を葉も根も頂くことでタカジアスターゼやビタミンCをたっぷりと。
激動の時代には、高杉晋作のように奇策とか奇手を使いこなす、思い切ったことが出来る人が必要になってくるのではないかと思います。
現代の世界、そして日本も様々な問題が噴出している激動期。
思い切ったことが出来る人物が必要な時。自分がそれをやるには齢を取っているので、せめて自分が出来ることをやろう。歴史や偉人の話を書いて、そういった人達に届いて欲しい、先人達の思いを継いで欲しいと願いながら、高杉晋作ミン大根をご馳走様でした。