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【エッセイ】心に寄り添うということ

新年、明けてました!笑
2024年もどうぞよろしくお願いします🙏

今日はちょっと私のキャラ的に「あれ?」な
文章になりますが、ご勘弁を🤲

元旦早々、思いもよらない大地震が起こり、いまだ亡くなられた方々の人数が増え続けていることに心が痛みます。

まずは亡くなられた方のご冥福をお祈りすると共に、被災された多くの方々は未だ、先が見えない状況と思いますが、どうか希望を持ち、一日も早い復興と平穏な日々を少しでも早く取り戻せるよう心よりお見舞い申し上げます。

大切な人を亡くされ、残された方々が今、どんな思いでいるのか、また被災された方々がいま現在も余震の続く中、不安な状況で毎日を過ごされているのか、それは普通に暮らせている私達には到底解りえない、想像も出来ない辛さでしょうし、不安な毎日なのだろうと思います。

受けた悲みや心の痛みは決して当事者じゃなければ分からない…。

今の自分に出来ること。

結局は義援金へ寄付という形でしか出来ないのがもどかしいですが。

※被災者へ支援が直接届くのはコチラからの義援金が確実です。

やめて欲しいこと

大きな災害や事故などが起こる度、今や情報を得る為の根幹でもあるネットでは フェイク情報や恐怖心を煽るような根拠のない都市伝説レベルの情報まで、まことしやかに飛び交っています。

何なんでしょうね、そういった情報を流す人って。何が目的なのかと人間性を疑いますし、逆に目的が無いからこそタチが悪いのかなとも思いますが。。

とにかく、「自分が当事者だったたら…」という想像力の無い人があまりにも多いことには怒りすら覚えます。

共感力

共感力とは
他者の考えや意見にその通りだと感じたり、喜怒哀楽といった感情に寄り添うことができる力。

人間関係に於いて大切なこと。

「共感力」

今こそ、被災された方々の気持に寄り添う「共感力」が必要ではないでしょうか。

今朝、Xで地震関連の情報を見ている時にふと目に止まった投稿がありました。

コラムのタイトルは

「神様どうして」

これを書いた人は北陸中日新聞本社編集部の
記者の方。

この方は記者という仕事上、事件や政治や疑惑に踏み込んだことを書かれていることが多いのですが、どこか私の知るレベルの「新聞記者」とは少し違う感じを受けました。

他の記事の中にはこんな一文も見つけました。

 「書いてなんぼ」。駆け出しのころ、そう教わった。覚えている言葉が、もう一つある。「相手のな、懐に入れ」。二十年余り前だ。誰に教わったか、思い出せない。だけど忘れない。時代遅れかもしれない。だけど大切にしたい。

目の前の相手を信頼し、信頼してもらう。心を開き、開いてもらう。そこにウソはないと思う。その先に組織や権力が隠れていることがあっても、恐れずに、書く。

北陸中日新聞 前口憲行さんのコラムより

この記事のタイトルは「自戒」

東京高検の検事長と新聞記者との賭けマージャン問題についてとある新聞社が載せた「お詫び」の記事について書かれたもの。

 権力の監視は記者発表ではできない。個別に距離を縮め、書く。その記者も誰かに「懐に入れ」と教わり、雀卓(じゃんたく)を囲んだのか。懐具合を気にしながら。

北陸中日新聞 前口憲行さんのコラムより

この方のコラムを読んでいて感じるのは「共感力」

どんなことにも、当事者の気持ちになって書くことは出来そうでなかなか出来ない。

なぜなら、人は「理解して欲しい」「伝えたい」と思う時、つい自分の「主観」を主張しがちになってしまうから。

それはある意味、思いを伝えたいと思えば仕方のないことなのかもしれないけど。

私自身、書くことを仕事としている中でその難しさを痛感することがあります。

思いを「言葉」にし「文字」にして伝えることは、主観が入ってしまうほどに難しい。

また受け取る側の状況や精神状態で、思いもよらない方向に受け取られてしまうから。

しかし、それも時と場合によるのだな…。
前口さんのコラムを読んで改めて思いました。

「一緒に揺れ、一緒におびえ、一緒に泣きます」

彼もまた被災者であり、だからこその「主観」が入った説得力のある力強い「言葉」

これこそが被災した多くの方々に響く言葉であり、「共感力」のそれなのだと心から思いました。

客観力と俯瞰力

最近ふと思うことがあります。

冒頭の新聞社もそうですが、SNSでは色んな目的をもって発信をしてる人がいます。

趣味的な発信をしてる人、仕事として目的を持って発信する人、本当に様々な人がいる。

もし、仕事に関連して発信をしてるならば当然、発信の仕方は慎重にならなければならないですよね。

しかし、そこは結構曖昧な人も多い。

職業や企業名がわかる形で個人的な意見や思いをつい深く考えず発信してしまう人もいます。

それこそ、自身の価値観や正義感など。

そして、そのほとんどは自分の「主観」であることが多んです。

個人とは違い、職業や企業名がわかってしまうアカウントでの発信には「客観力」「俯瞰力」は凄く重要なこと。

自分の発信によって、その職業や企業が客観的にどう見られるのか?という目線、それによって受ける影響をどう「俯瞰」で見れているのか。

また個人的な発信だとしても、自分の発信により、その言葉を目にした人がどう思うのか、思った人が発信した自分を、どういう人間だと感じるのかという目線がないと、結局は自分が損をすることにすら気が付かない。

そんな人を最近多く見かけます。

「好きなことして何が悪い」

「誰かに何かを言われる筋合いはない」と主張する。

その主張はわかるけれど、違和感を感じるんですよね。

「誰かに何を言われる筋合いはない」ということ、それは相手にも言えること。

極端な話、誰かが文句言おうが、ケチつけようがそれは受け取る側の”相手の自由”ということ。

本当に自分の好きなように発信するということは、何を言われたとしても、そこに反応し、反論した時点で違うと私は思うんです。

万人に好かれることは無いし、万人が共感することってのもほぼ不可能。

でも、自由に自分の好きなことを思うままに発信するということは、何を言われたとしても、それを受け流すくらいの気持ちがないと出来ないということ。

自由とはそういうことだと私は思うんです。

ただ、ひとつ言えること。

それは万人に好かれることは不可能でも、極力不快と思われない発信は出来ると私は思っています。

その発信に必要なこと。

それが客観力と俯瞰力なのではないか、そう思うのです。

自分の発した言葉、文字は発信した瞬間から1人歩きします。

だからこそ慎重でなければいけないし、選ばなければならない、そう思って最近のSNSを見て思っています。


心に寄り添うということ

それは簡単なようで難しいこと。
心は形が無いし、見えないもの。

だからこそ言葉にすること、行動で示して伝えることが必要。

だって伝わってないのは「無いの」と同じだから。

心に寄り添うとは、相手に伝わることで初めて「寄り添える」のだと私は思います。

出来ることは人によって様々。

これから災害ボランティア等も体制が整い次第、受け入れも始まるでしょう。

そういった「行動」で示す方法もあれば、「寄付や募金」と言う形もまたひとつの「寄り添い」だと思います。

冒頭にコラム、新聞記者の前口さんのコラムの一文。

「一緒に揺れ、一緒におびえ、一緒に泣きます」

その言葉が頭を離れません。

この言葉がどれほど、被災された方々の心に寄り添ったか、計り知れないと思います。

書くことを仕事としている私は、改めて書くことの難しさ、そして素晴らしさを知りました。

いつか自分も、人の心に寄り添えるような記事を書けるよう、精進したいと思います。

最後になりましたが、本年もどうぞよろしくお願い致します。

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