【映画レビュー】あんのことを観て
“事実は小説よりも奇なり“
実際に起きた話を基に制作された映画。
嘘や虚構が渦巻くこの時代。
どこに真実があり、あの時、正解は一体なんだったのか。
人は強くもあり
そして儚いくらいに脆い…
主人公「杏」を思うと
今もまだ胸の痛みがとれない。
あんのことってどんな映画?
(※ネタバレあり)
壮絶な生い立ち
主人公“香川杏“(河合優実)はホステスの母と足の悪い祖母と一緒に古いの団地のゴミだらけの一室に3人で暮らしていた。
杏は幼い頃より母親から暴力を受け又、貧困の為小学生の頃から食べるために万引きを繰り返し、やがて不登校となり義務教育もろくに受けず、読み書きすらもままならない。
金を得るため母親に12歳で身体を売ることを強要され、16歳の頃には客に覚せい剤を打たれたことをきっかけに現実から逃げるように覚せい剤を打ち続ける日々を送っていた。
出会い
しかし21歳になった杏はついに覚せい剤で警察に逮捕される。
そこで出会ったのが刑事の“多田羅“(佐藤二朗)だ。
多々羅は薬物更生の自助グループ”サルベージ赤羽”を主宰していて、そこを拠り所とする元薬物中毒者の社会復帰の手助けしており、多田羅は杏に対してもまた救いの手を差し伸べた。
そんな多田羅を取材していたのが週刊誌記者の桐野(稲垣吾郎)だ。
杏は薬物をやめ、真面目に働こうとするが、家へ帰れば母親に凄まじい暴力を受け、身体を売って金を作れと強要される。
絶望する杏だったが、多田羅は寄り添い続けた。
杏は桐野が紹介してくれた老人介護施設で働くこととなり、真面目に仕事にとり組む姿は周りも高く評価をしていた。
初めてもらった給料で杏は多々羅と桐野にごちそうしたりと、杏はほんの少しだけ幸せを感じる瞬間もあった。
積み重ねること
多田羅と桐野は杏を励まし続け、やがて家を出て自立出来るよう、女性を一時保護する”シェルター”のマンションへの入居させ、杏は初めて一人暮らし始めることになる。
義務教育をろくに受けて来なかった杏は夜間学校にも通い出し、少しずつではあるが着実に新たな人生を歩み始めていた。
また杏は日記を買い、クスリを打たなかった毎日に〇印を付けた。
その一日一の積み重ねが一週間になり
一ヶ月になり
一年になる。
”積み重ね”
が大切。
丸を付けろ。
そう多田羅が言っていたからだ。
綻び
そんな中、桐野のもとにサルベージに通っていた雅という女性が多田羅から性被害に遭っていたことを知らされる。
にわかに信じがたい桐野だったが、他の女性からも証言もとり、多田羅本人に真相はどうなのかと問い詰めた。
しかし多々羅は
「ノーコメント」
そういうだけだった。
しかし
「杏さんともこのような関係をもたれましたか?」
そう問いただす桐野に対し
「その記事が出たらサルベージは終る。」
「通ってたやつらはどうなる」
「集まりを支えにしてクスリやめてたやつらは」
「脅迫ですか?」
と返す桐野に
「最初から記事書くために近づいたのか!」
多田羅はそう言い残し唾を吐いてその場から立ち去った。
程なく多々羅は逮捕され警察も辞職した。
たった一つの光
時はコロナ禍となり杏は仕事の休職を余儀なくされ、夜間学校は休校となり行き場所を失い孤独に押しつぶさせそうになっていた。
ある朝、同じシェルターに暮らす若い母親が幼い子供(はやと)を無理やり杏に預け、立ち去ってしまう。
困惑する杏だったが、はやとの世話をするうちに、いつしかはやとがかけがえのない存在になっていった。
ある時、杏の母親がシェルターのマンションを探し当ててきた。
「ばぁちゃんがコロナかもしれない」
「助けて」
と泣きついてきたのだ。
杏は仕方なくはやとを連れて家に戻ったが、祖母は普段通りに元気だった。
そう、母親が杏を連れ戻す為に騙したのだ。
母親は杏からはやとを奪うと
「返してほしければ身体を売って金稼いでこい」
と脅した。
杏ははやとを守るため、身体を売って金を作り家に戻ったが、そこにもうはやとの姿は無かった。
「泣いてうるさいから」という理由で児童相談所にはやとを引き取らせたのだ。
ひこうき雲
杏ははやとというたったひとつの生きがいを失い絶望し、ついにクスリに手を出してしまう。
日記に付け続けてていた〇印はその日で途絶え、杏は絶望し日々を積み重ねた日記に火を付けた。
たった一枚、はやとのことを書き記したページだけは破って残し、胸に抱いて部屋のベランダの前に立った。
澄み渡る青空にはブルーインパルスが轟音が響き渡る。
ゆっくりと淡く消えゆく飛行機雲を空に残し、杏はベランダから飛び降り命を絶った。
あんのこと
現場にやってきた桐野はショックのあまりその場に膝から崩れ落ちた。
やがて留置所の多々羅に会いに行った桐野は尋ねる。
「俺が記事を書かなければ、彼女はは生きていたんでしょうか」
「多々羅さんがいたら、相談出来たんでしょうか」
「杏ちゃん、死なずに済んだんですかね?」
そう言いながら涙を流した。
杏は確かに生きていた
その後、多田羅は語った。
「これまで見てきた経験上薬物のせいで自殺する人はほとんどいないです」
「死ぬよりまたクスリを使いたくなるからです」
「彼女が死んだのは、それまで積み上げてきたものを自分で壊してしまった自責の念からだと思います」
「彼女はクスリをやめられていたんです」
「彼女はクスリをやめられていたんです!!!」
「彼女はクスリを。。。」
多田羅は唇を強く噛みしめながらそう繰り返し嗚咽した。
一方、はやとは児相から母親の元へ帰されていた。
杏について事情を聞かれた母親は
「こうしてはやとと居られるのは杏ちゃんのおかげです」
「恩人です」
そう心から杏に感謝し警察を後にした。
感想
この作品は実際に“コロナ禍で起きた話を基に作られている“ということが前提だけど、私が調べた限り7割は真実、残りは監督が脚色したり想像した部分で作られています。
が概ね事実に沿った内容。
この映画を観た人の多くは『クスリ』や『身体を売る』『親からの肉体的身体的暴力』はここまで壮絶な人は少ないでしょう。
なので共感出来ない人も少なくないと思う。
話の基となった記事
作品を観た多くの方のレビューを読ませてもらったけど、俳優さんの演技は概ね高く評価されてるものが多かった。
けど相変わらずと言っていいのか、細かい部分の指摘や、何を伝えたかったのかが分からないという声もまた多かったのも事実だ。
まぁ、映画をエンタメとして見る人にとってはあまり好ましく思わないジャンルの映画なんだろうとは思う。
ただ一つ言えることは、ある側面からだけでしか物事を見れない人にとっては、このような映画を深読みすることは難しいんじゃないかな。
このお話のベースには事実として25歳で自ら命を絶ったハナ(仮名)という一人の女性がいたということをまず心に留めて欲しい。
人としての権利とは
人も動物も、親や環境、境遇など何一つ選べずに生まれてきます。
生まれて間もなく立ち上がる動物の子供は、大人と何ら変わらず、自然の中においてはいつ天敵に襲われ食べられても仕方ない状況に置かれ、弱い子供は食べられてしまうことも多々あります。
強いものが弱いものを食べ、自らの命を生きながらえ種を残すのは命を繋ぐため。
これは自然の摂理であり、命の食物連鎖で抗えないこと。
しかし、霊長類はというと生まれてから多くの時間を母親と共に過ごし、少しづつ大きくなるにつれ、生きる術を教わって親離れする。
人間も霊長類の仲間なので基本は同じだろうと思うんです。
では人間と動物の大きな違いはなんだろうか。
親も選べない、境遇も選べない。
たった一つ選べるとしたらそれは『環境』ではないでしょうか?
しかしこれとて、環境を変える権利はあったとしても自ら変える力は子供にはない。
だからこそ子供の権利条約には
・生きる権利
・育つ権利
・守られる権利
・参加する権利
がありそれを守るのは親の義務であり大人の役割であると思うのです。
少し話が逸れましたが、杏はそのどの権利も守られずに生きてきました。
そんな中で出会った多々羅は、杏にとって闇の中に差し込む一筋の光であり、大人として杏に手をさしのべ、生きる権利、守られる権利をそして人としてもう一度”育つ権利”を見つけさせてくれたのだと思います。
親は選べない
この話に出てくる鬼畜のような母親を見て皆さんならどう思われるでしょうか?
『身体を売って金を作れ』
そんな親が本当にいるのか?そう思ってしまいますよね。
しかし現実に世の中から虐待は無くならない。
そもそも親だからと言って完全な人間などいないんです。
ただ、自分の経験から言えば妊娠出産を経て『母性』に目覚めるってのはあると思うんです。
忘れもしない…
初めて娘を生んだ時、横に寝かされた娘が泣くとおっぱいが張って来て母乳が勝手に出て来たんです。
あんなに一度眠ったら地震が来ても目を覚まさいくらいの自分が娘が『ピクッ』と動いただけで目が覚め飛び起きるんです。
表現が少し独特かもしれませんが自分が『母親』になったのだと感じた瞬間でした。
しかしです。
世の中には同じ感覚を持ち合わせない人も多くいるのも事実。
自分の子供を心から愛せないと苦しむ親もいるし、究極、手にかけて殺めてしまう人もいる。
まさにそれも「現実」
杏の母親もそうだったのでしょう。
杏と言う存在は、自分の欲望を満たす為の手段でしかない。
世の中にはそういう人もいるという現実。
正義とは?
この話に登場する多々羅という刑事は実在していますし週刊誌記者(実際は新聞記者)の桐野も実在しています。
多田羅は映画の中でサルベージに通っていた女性に立場を利用し性加害を加えたとして逮捕されます。
この話、実際の話は多々羅が相談に訪れた女性の下着姿を撮影したとして逮捕、起訴されています。
この映画を観た多くの人は女性に対して行った行為を許せないと思ったはずです。
権力を使って加害に及ぶなんてもってのほかです。
しかしです。
映画の中で、サルベージで雅と多々羅は仲良さそうに話してるシーンがあるんです。
それを桐野は見ていました。
そして多々羅の同僚がそっと現れ、多々羅と雅を見つめる桐野の方をじろりと見ていました。
その後、雅は挙動のおかしい男と桐野の前に現れ、多々羅とのラインのやりとりと、音声を桐野に聞かせます。
これで多々羅が立場を利用し性加害を加えたのだと断言できるのでしょうか?
雅は初めの頃多々羅を慕っているようでしたし、自助グループで発言している時も目つきは全く違いました。主観かもですけど。
仲良さそうに見えていたのはもしかしたら付き合っていたからなのかと素直に思いました。
そうだとしててす。
雅に男が出来、クスリをまたやっていると多田羅が知ったら。
実際桐野と会った時の雅は再犯してるしと本人も言っているし、わけの分からない男が横にいましたからね。
一方的な性加害ってあってはならないと思う。
けど週刊誌にこのことをリークしてお金が動いてるようにも見える。
あれは監督の意図なのかなととも感じたんですよね。
例えば付き合っていたとして、後からそれを利用するような女性の話はこれまでも芸能界でもありましたし。
要は弱いとされる女性の立場を利用すれば何とでも言えるってことです。
後になってLINEのやり取りや音声の一部切り取ったとして果たしてそれが真実なのでしょうか?
それと週刊誌の記者、桐野。
彼は多々羅と限りなく友人に近い関係だったはと思います。杏を共に見守る姿は、悪い人間とは思えない。
実際多々羅の性加害の話を聞いた時に、信じられない様子でした。
そして多々羅に会った時
「杏さんともこのような関係を持ちましたか?」
と聞きました。
もうその時点で『やっている』と思ってますよね、彼。
彼にとっては自分で知り得た情報だけで『犯人』と決めつけ、世間に公表することこそが記者の“使命“であり”正義と思っているのかもしれません。
そのことで、サルベージ赤羽に通っていた人達がどうなるのかを桐野は予想できたはず。
多々羅のことは実際の話でも起訴はされていますが、結局お互いしか知りえない事。
ゆえに弱いとされる女性の意見の方が強いんですよね、結局。
真実も正義もその人の中にしか答えはないけど、人を陥れてそれでも『私は被害者です』と平然と言える女性も男性も悲しいかなこの世の中にはたくさん居る。
それもまた現実。
今の世の中を象徴しているのが多々羅と桐野という登場人物に投影されているのかなとおもいました。
コロナ禍に浮き彫りになったこと
今となっては4年前の出来事がまるで嘘のようですよね。
マスクしてると『え?』って顔されますし。
その頃から『マスクするなんて!』という人居ましたよね!笑
それを聞いていて私は
『想像力のない人って大勢いるな』
って思ってました。
だって、マスクする理由って様々だし。
私は喘息患者な上に花粉症もあるのでコロナ関係なくマスクは必要に応じてずっと前からしていましたからね。
そしてワクチン。
これは未だに色々言われていますが、色んなソースを見る限りどっちが正解とか、間違ってるかなんてそもそも無かったとすら思えます。
利権だ金だ、あるかもしれません。
でも私にとってそんなことはどうでもよかった。
でもそうしたことから、確実に「分断」が浮き彫りになった気がします。
コロナ禍がもたらしたもの。
杏は多々羅という大切な存在を失い、仕事は休業させられ、学校は休校となりました。
コロナ禍でなければ感じるはずのなかった孤独や絶望もあったと思います。
そう思うと悔やませれます。
今となってはマスクは限られた場所以外は基本自由になりました。
ワクチンも前は推奨はされていましたが、今は有料になったこともあり、個人での判断にゆだねられています。
自由って一体なんでしょうね。
みんな違ってみんないい。
ジェンダー平等が叫ばれる現代、とりわけ女性の声は大きくなりました。
しかし、それは一部の大きな声ばかりを聞いてはいないでしょうか?
保守だリベラルだとお互い分かり合えないのはなぜなのでしょう。
コロナ禍で浮き彫りになったのは、社会的弱者や、本当に守られるべき人達の声ほど届かず目を向けられることなく、取り残された人が多くいたということのような気がします。
最後に
わずか25歳という若さで杏は命を絶ちました。
杏は亡くなる前、轟音と共に空に現れたブルーインパルスを見ました。
青い空に残る飛行機雲を見て何を思ったのでしょう。
当時、医療従事者に感謝と敬意をという意味で東京上空に現れたブルーインパルスは美しい飛行機雲を残しました。
ある人はそれを見て「ありがとう」と思ったでしょう。
確かにあの時、未知のウイルスと最前線で戦っていた医療従事者には感謝しかありません。
しかし映画であえてあのシーンを描きたかったのは希望の象徴を見た杏の現実への絶望感だったのではないでしょうか。
彼女が飛び降りる瞬間まで、私が思っていたこと
『生きてていいんだよ』
『生きる権利があるんだよ』
『お願い生きて…』
という気持ちでした。
人は失敗する生き物です。
そして失敗から学ぶ生き物です。
つまづいた時はまた立ち上がればいい。
けど
自分一人で立ち上がれない時もある。
そんな時、杏の側に誰かいてくれていたら。
そう思えてなりません。
でも、壮絶な人生を生きた25歳のハナさんという女性がこの世に生きた証を映画という形で残せてよかったと思います。
それだけでも、彼女が生まれた意味があった気がしています。
最後にハナさんのご冥福を心よりお祈りいたします。
あとがき
この映画は今年公開されたものですが、サブスクに早いうちに登場し出会えた作品でした。
まず主演された河合優実さんの演技が素晴らしく、もうドキュメンタリーを見ているのではと錯覚するほどの圧巻の演技力でした。
また私の好きな俳優さんでもある佐藤二郎さん。彼ほど個性際立つ演技をされる方は本当に少ないと思います。
割と、笑いありの作品に出演されることが多いですが、こんなシリアスな佐藤二郎の演技はドラマ『医龍』のなかのスーパードクター以来なような気がします。
複雑な心情や心の動き、悲しみ、怒りや矛盾をセリフがなくとも演じることの出来る素晴らし俳優さんだと思います。
そして稲垣吾郎。
どこか週刊誌の記者と言う職業に矛盾を感じつつ自分なりの正義を貫く。
しかし、杏が亡くなった事で自分のしたことは間違ってたのか、多々羅に問い正す人間の弱さ。そんな正義感と弱さをアンバランスに持ち合わせた桐野を上手く演じていたと思います。
現実というある意味の絶望を見せることも今の時代には必要なことなのかもしれません。
見えているものが全てではない。
苦しみや絶望の中にいる人、そしてそれに手を差し伸べる人。
冷たいようで暖かい。
希望と絶望は紙一重。
人は強くて脆い。
私の中では、作品、俳優さん共に素晴らしい映画だったと思います。