『「言海」を読む』を読む
「言海」を読む
というタイトルの本の読書記録というと、誰もがこんなタイトルを付けたくなるのではなかろうか。
『「言海」を読む』を読む
なので、そうした。
『言海』とは何か。
著者はこういう。だが、それほど知られた辞書だろうか。私などは、つい最近、半世紀も生きてようやくその存在を知った。それは単に私が無知であったからという可能性もあるが、若い方はもとよりそれなりの年齢の方でもご存知ない方は少なくなかろうと、勝手ながら想像する。
『言海』とは、日本で初めて作られた普通語の国語辞典である。この普通語というのが特徴であって、それまでも辞書は作られたものの、それは難語や専門語を解説したものであった。耳馴れない言葉について説明したのが辞書だったわけである。
だが、世界が狭くなってきて他国語と接する機会が多くなると、それぞれの国の言葉を説明する普通語の辞書が求められるようになる。普通語の国語辞典があるということが、文明国の証とも言えた。そこで我が国も、とばかりに作られたのが「言海」である。明治22年のことである。
本書はその「言海」について語ったものである。
序章
序章は明治の文学と言海について語っている。主に漱石。
なるほど。それは考えたことがなかった。同じ言葉でも明治と今ではそのニュアンスは変わるのかもしれない。もしかしたら、小説についても多少なりとも印象を違えるかもしれない。
漱石は、というよりも、もしかしたら明治時代はみなそうなのかもしれないが、あて字のように漢字を使うことが少なからずあったようだ。例えば本書にも「始終」と書いて「しょっちゅう」とかなが振ってあるのを紹介している。漱石の「坑夫」に「森としている」と書いて「しんとしている」と振ってあるのを読んだような気がする。静かを表現したものだと理解したが、だとすれば面白い表現だ。ただ、「森(しん)とする」という語は「言海」には載っていない。漱石の創作のような気がしている(が、違うかもしれない)。
「言海」をひきひき漱石を読むのも面白そうではある。が、大変そうでもある。
第一章 大槻文彦と『言海』
大槻文彦とは、『言海』の編纂者である。『言海』はほぼ彼が一人で作り上げたもので、それは実に大変な作業と言わねばなるまい。その労苦については大槻文彦自身が『言海』に付けた『ことばのうみのおくがき』にも記している。
現代でも辞書編纂は大変な作業である。ネットに言葉が洪水のごとく溢れる現代はある意味で明治時代よりも辞書編纂は大変とも言えるが、明治時代の通信手段は手紙に電報程度である。言葉の意味を求めていろいろに訪ね歩いたようだ。
第二章 『言海』の特徴
『言海』は、これまでいろは順に並べられていた言葉を五十音順に変えた。五十音に慣れた現代人にはありがたい限りだ。
そして、発音を表示している。
発音?
国語辞典に発音など必要か。と思ったが、例えば、「うへ」と書いて「へ」の横に「エ」と振ってあるわけである。この「エ」が発音で「うへ」と書いて「うえ」と読むことがわかる。今とは違う。
そして語源。語源について本書で次のように書かれている。
え。そうなの?
なんとなれば、
え、え、そうなの?
中国語は違うのか。確かに中国語に「かな」はないんだが。いやいや、そうだとしても、たとえ「同系統であることが証明されている言語が存在しない」としても、語源を辿りにくくなるものなのだろうか。どう関係するのかわからないわけで。
第三章 見出し項目と語釈から『言海』を読む
『言海』がどのような語を見出し語としているかということもさることながら、やはり語釈である。このように書かれている。
さらに続けてこうある。
思わずニタリとしてしまふ。「アナログ式時計文字盤…云々」も「「明」という漢字の…云々」も、この語釈は新明解国語辞典第四版にあるものだ。
さらに続く。
『言海』には、語釈で使用している語が見出し語になっていないものがある。語釈を読んでわからない語があったとしても『言海』では解決しないわけだ。そのことについて次のように書いている。
著者の言もわからないではない。というよりも、よくわかる。堂々巡りをせずに、かつどの語も見出しとするのは不可能ではあるまいか。言い換えれば「この辞書の見出し語だけを使って語釈を書く」ということでもある。だとすれば、語釈を辿っていけばいつかはぐるぐる回ってしまいそうな気がする。ぐるぐる回らずに、かつこの辞書の見出し語だけを使って語釈を書くことは可能なのだろうか。
第四章 明治の日本語と『言海』
こちらでは鷗外や白秋などの文章と『言海』を突き合わせている。そしてまた再び語釈の堂々巡りについての言及があるのである。
さらには、『言海』において、
のように堂々巡りしているが、『新明解国語辞典』第四版においても語釈は『言海』と全同であり、さらに漢語「ショウリ」を「勝ち」と説明しており、ようするに堂々巡りになっていると指摘してもいる。
このあたりから、なんだか特別に新明解に批判的な感じを受けるに至るんだが、さらに続けてこうも言う。
山田忠雄氏、及び新明解に、なかなか批判的な意見が見られるということが、面白かったりする。
第五章 『言海』をライバル視した山田美妙『日本大辞書』
『言海』の後に刊行されたのが山田美妙編纂の『日本大辞書』である。この『日本大辞書』には『言海』の名前があちらこちらに出てくる(らしい)。その『日本大辞書』に関する記述にしてもやはり山田忠雄の言葉を出している。
まだ続く。
大槻文彦は『ことばのうみのおくがき』にて、『言海』より前に刊行された辞書について触れている。このことについて、
そしてまだまだ。
「『日本大辞書』は『言海』のイミテーションか」と題して、再び山田忠雄の言葉を挙げている。
そして次のように続ける。
そうして、「ウマ(馬)」の語釈について言海と日本大辞書を引き比べている。ついでなので並べてみよう(結構長いんだが)。
まず「言海」の語釈から。
続いて「日本大辞典」。
うーむ。イミテーションというには違いが過ぎるように思える。著者も、「言海を下敷きにしてはいるかもしれないが、むしろ言海を乗り越えようとしている」と言う。
以上、章ごとに振り返りつつ書いてみた。山田忠雄氏に対する批判的な言葉が少なからずある。というよりも目立っているといっていい。ところで、著者は実は山田忠雄氏の甥にあたられる。これには驚いた。全く知らなかったわけで。更には、新明解国語辞典第四版の編纂にも関わっておられる。二度仰天である。もちろんだからと言って批判してはならないということはないし、批判しなければならないということもない。山田忠雄氏が他の辞書を「芋辞書」と吐き捨てたように、新明解を批判したっていい。そこからこそ、より優れた辞書が生まれ得るのだろうと、そう思う。何の批判もなくなったとき、そこに残るのは停滞のみであるのだから。
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