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ユーゴー「死刑囚最後の日」

フランスが、1981年に死刑を廃止するまでギロチンにより斬首していたということを知る人はどれだけいるだろう。1981年、私は高校生であった。ギロチンなど過去のもの歴史のものであると思っていた。だが違った。私が生きて青春を過ごしていたその同じ時に首を切り落とされていた人がいた。法的に認められた方法で。ユーゴーが生きた時代ももちろんギロチンは存在した。そして、それはおそらく公開であったのだと思われる。

本作品は、死刑判決を受けた一人の男が処刑されるその寸前までの、その男の心情を描いたものである。男が死刑判決を受けることになったその理由はわからない。男のそれまでの人生がどういうものであったのか、それもわからない。年齢が幾つであるのかさえわからない。家族はあるのか、どういう職業に就いていたのか、一切語られない。ほんの少しだけわかったと言えば、男はどうやらある程度の身分にあるもののようである。そして。 マリーという名の、まだ三歳にしかならない幼い娘が一人いる。

監獄につながれ短い自らの生に苦悶した後、彼は市庁で身支度をされる。受刑者の。髪を切られ上着をとられネクタイを外されシャツの襟を切り取られ両手を後ろ手に縛られ両足をゆるく縛られて手を縛った縄に繋がれる。それで支度は終わりである。後は群衆の待つ断頭台へ登るだけだ。

ユーゴーは、死刑廃止の弁論としてこの物語を書いた。

私は死刑という制度を廃止したいと思っている一人である。ベッカリーアやユーゴーが望んだのと同じように。四十数年前、フランスで行われていたギロチンを私達は残酷だと思うだろう。野蛮だと思うだろう。更に数十年前の公開処刑など目を覆うだろう。けれども、今この国でなされている絞首刑もまた、百年後には、五十年後には、あるいはもしかしたら十年後には残酷だと思うだろう。野蛮だと思うだろう。未来においてそう思われるようなことを、今私達はやっている。

「死をもって償うのは日本の文化である」
かつて、そう言った政治家がいた。人類の歴史において刑罰の残虐さはそれこそ山のようにある。語り尽くせぬほどある。その累々と重ねてきた残虐さを、それをも文化だと言うのか。人は残虐さを残虐さと認め正してきたのではなかったか。残虐さをなくしてきたのではなかったか。過去にずっとそうやってきたからと言って正しいとは限らない。「ずっとそうやってきたから」というだけでは文化たり得ない。

残虐な行為を文化といって擁護するならするがいい。そのようなところに人類の豊かさは現れない。何をも変えず文化歴史なる言葉に埋没させるならすればいい。その先にあるのは殺伐とした世界だけだ。

人を殺すことは残虐以外の何ものでもない。
人を殺すことが正義ではあり得ない。

ユーゴーの言葉を、そして叫びを引用する。
彼がまだ二十八歳のときに紡いだ文章だ。

諸君にはわからないのか、諸君の公けの処刑はこそこそとなされていることが。諸君は自ら身を隠していることが。諸君は自分の仕事を恐れ恥じていることが。この告知の後は正理を知るべしを諸君は滑稽に口ごもっていることが。諸君は内心動揺し困却し心配し、自分が正当だとは信じかね、万般の疑惑にとらえられ何をなしてるかもよくわからないでただ旧慣にしたがって首を切っているということが、諸君にはわからないのか。諸君は少なくともその道徳的および社会的感情を失ってしまっているということを心の底に感じないのか。



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