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読んでいくうちに表紙の印象がガラッと変わる④【三浦しをん「ののはな通信」】
いよいよ「ののはな通信」最終章。
各章について感想を書いてきました。こちらもよろしければ読んでください。
三章ははなが駐在するアフリカのゾンダが内戦状態になり、はなを案じるのののメールで終わった。
四章の始まりは、はなからののへの手紙で始まる。
どうしてひとは互いに争うのだろう
ゾンダの内戦が徐々に激しさを増すなかで書かれる、はなからののへの手紙。
どうかしています。こんな世界は。だけど、戦いはまったくの異次元から出現したわけじゃない。昨日までの平和だった町から、穏やかに暮らしていたはずの人々の心のなかから、いつのまにかそれは生まれ、繁殖し、気づいたらはびこっていたのです。駆除の方法もわからないままに。同じことが、ゾンダ以外の場所で起こらないと、どうして言えるかしら。
破壊に快感を覚えるこというのは、不思議な習性だね。たぶん、多くのひとに備わっている習性だと思うんだけど。だから地球のどこかで、いつも戦争が起こってしまうのかな。
神が、民族や人種が、つまりあるのかないのか定かでないものが、争いの種になるという皮肉。
「みんなで仲良く」
「いじめをなくそう」
「協力しよう」
教員をやっているとき、よく耳にする言葉だった。でも大人たちだってみんなで仲良くできていないじゃないかと常に思っていた。世界中で戦っているじゃない。子供たちよりも残酷に。
そもそもいじめがある前提で話をしていることも、いじめを防止する法律ができるってのもおかしいと感じていた。ある国とかある人とかが当たり前のようにいじめられていても、大人の世界ではいいの?
自分以外のなにかを破壊することで、優位に立とうとする。富や名声を得られる。だからそれが快感となって、ひとも環境もものも、破壊が行われるのかもしれない。
そこにあるのは、常に比較だ。
民族だって、人種だって、国境だって結局人間が都合よく区別したものだ。
私は宗教についてもそれに近いものがあるのではないかと思うときがある。
信じる心をもつことは素晴らしいと思うのだけれど、他を受け入れないことをよしとする脆い心も同時にもってしまう場合もある。そして時には自分で考えずに教義に従えばよいという心も。
ぼんやりと日本で暮らすこと
はなの夫が日本へ帰国し、ののと会うことになる。
ゾンダ出国前に、はなは突如夫に離婚を申し出た。
外交官として働くはなの夫は、内戦が厳しさを増しあらゆる対応に追われているなかで衝撃を受ける。
はなはゾンダの内戦を目の当たりにして自分の魂にしたがって生きていくこと決め、ゾンダを出国したものの経由地のドバイで夫と別れたことをののは知る。
私はゾンダが大好きになりました。この国で出会ったひとたちのことが。かれらの存在をなかったことにして、私だけ日本でぼんやり暮らすなんてできない。
三章に出てきたはなの言葉だ。
ゾンダに行ったからこそ、はなにはより日本がぼんやりして見えたのだろう。
内側にいる私たちには気づかない、ぼんやり。
きっとその「ぼんやり」とは、「生きることがぼんやりしている」ということなのだと思う。
日本は平和だとよく言われる。夜道を女性が一人で歩いても平気だろうし、突然銃声がすることもまずない。キレイな水がどこでも飲めるし、捨てられるほど食べ物もたくさんある。
安心して生きるためのことはほぼそろっているはずなのに、どうして心から「生きている」と感じられないひとが多いのか。
外から見たら恵まれているのに、「無理ゲー」な社会であることをぼんやりと受け入れる国。
他人に追い抜かされて、見下されて、生きにくくならないためにぼんやりしていられない国。
他人と比べて競争ばかりしていたら、どうして生きているのかわからなくなってぼんやりしてしまう国。
スマートフォンを持っているのに、貧しいなとぼんやり感じている国。
なんとなくこっちかな、と他人の「ふり」をすることで安心する国。
そうしていくうちに「無神経」となり「不感症」になっていくことをはなは恐れていたのかもしれない。
ののはしばらく経ってから、届かないであろう手紙ではなに対しこんなことを言っている。
私はあなたの感じやすい心、けれど常に毅然とした佇まいを、とてもまぶしく思い、愛してきました。同時に、同じ部分を、青臭く手に負えないと思っていたのも事実です。妥協というか、なあなあという単語を、もう少し知ってくれてもいいのに、と。だってそれが、生きて生活していくということでしょう。だれかを愛し受け入れるとは、そういうことでしょう。
「ぼんやり」と「なあなあ」は少し違うのかもしれない。
「ぼんやり」は自分の思考は入れずにただ見つめている感じ。「なあなあ」は意図的にぼやけさせるような感じがする。
もしはなになあなあさが多少でもあったら、ののと別れずに過ごしていたのだろうか。
いずれ人は忘れてしまうのか
夫はののがなにか知っているのではないかと思い会うことにしたが、ののもゾンダで書かれたはなの手紙を最後に連絡が途絶えていた。
その後はなからの連絡がくることはなく、最後までののからの手紙だけで物語は進んでいく。
生きているか死んでいるか、会えるか会えないか。それはたいした問題ではないのかもしれない。私たちはいつでも、境界を越えられる。時間も距離も飛び越えられる。
正直に言うと、はなの現状を案じること、忘れていた瞬間も多々ありました。こんな類の正直な申告は、べつに必要ない気もしますが。だって、「あなたのこと忘れてたときもあったわ」というのは、実は正直さではなく、自己弁護、自己保身から来る発言ですものね。忘れて生きる。日常に心身とともに埋もれていく。そのことを思うたび、残酷という言葉が浮かびます。自分も、まさにそのとおりに日常を生きているくせにね。同時に、「会う」ことの大切さ、会えなくとも、想像し続けることの大切さも思います。
三章の中でもののは悦子さんとの「記憶」について書いている。
いつも心にそのひとを想うこと、記憶に留めておくこと。
誰かとの共有していた時間があるからこそ、自分が生きていることが認識されているのかもしれない。
はなの夫とののが会ってから約1ヶ月後に、東日本大震災が起こる。
非常事態が起きているのに、同時並行で日常もつづいています。なんだか変な感じです。あと数年もしたら、いえ、もしかしたら半年も経たずに、今回の地震や津波や原発事故のことは、多くのひとの意識に上らなくなってしまうのかもしれません。いたみを感じているひとの気持ちを置き去りにして。
あれだけ衝撃を受けたはずなのに、今ではその記憶もぼんやりしてしまっている。まだ痛みを感じているひとはいるのに。
記憶と一緒に時間が無常に流されていくように感じた。
自分で自分を意識をしなければ、自分もいつか一緒にどこかへ流されてしまう気がする。
自分だけの「魂」と「誇り」
はなの記憶もそれ以外も忘れてはいけない、知っておかなくてはいけない。
自分で考えて、自分で自分を意識するためにも。
そう考えたののはゾンダについてあらゆることを調べ始める。
真に社会を変革し、ひとの心を打ってきたのは、実ははるか昔から、常識はずれな言動だったのではないかとも思う。古い考えかたや規範に縛られてきた人々の魂を解放し、「自由」の意味を更新しつづけてきたのは、「突拍子もない」と評されるような行いをするひとだったのではないでしょうか。
そう考えると、「誇り」という言葉が浮かんできます。ちっぽけな体面や、地位や名誉を守りたいがための自尊心とはまったく無縁な、もっと根源的な「誇り」です。真にひとを突き動かし、ひとの心を打つのは、金品や安寧ではなく、「誇り」に基づく選択や言動なのだと思えてなりません。
遠い場所とは、ゾンダだけではありません。他者の心も、自分自身の内面すらも、等しく遠い。しかし遠いからといって、知る努力を放棄してしまったら、想像の翼はいつまでも羽ばたかず、距離は縮まらぬまま、私たちは永遠に隔たれてしまうでしょう。
はなが言っていた「魂」とは、ののの言う「誇り」なのではないか。
自分で正しいと思うことを、自分の意思にしたがってやっていくこと。
だれから強制されるでもなく、自分が自然ともつ魂や誇りに気がつくこと。
それは苦しいこともあるのかもしれないけれど、考えることを放棄してしまえば自分は自分でなくなり、ぼんやりとして生きる「だれか」になってしまう。
想像の翼を身につけるには、自分が自分であることを知り、他者との違いを知ること。
そして善悪など判断をするのではなく、あるがままを知ること。
二人の最後の言葉
あなたに出会ったおかげで、私は人間として生きる喜びと苦しみのすべてを知りました。感謝します。神さまにではなく、あなたに。<はな>
私に魂というものがもしあるのならば、それはあなたのものです。私の鼓動が止まるとき、魂はあなたのもとへと還るでしょう。あなたが形づくり、息吹を与えてくれたものだからです。<のの>