見出し画像

毎朝のルーティンは"永遠の憧れ"へのオマージュ。

マインドフルネスを伝えていると「習慣化したいです!」と言われることが多い。
実際、私はここ3年程、毎朝マインドフルネス瞑想をなんとか続けられている。日によっては1分だけ、とか電車の中で、という日もあるが、やっていない日は無いと思う。
でもこれは習慣になっているのか?と考えると、いつも違和感があった。
それで最近気づいたのは、これは「宮木みきこちゃんへのオマージュだ」ということだ。

なんか違うことをしてしまう自分の痛さ

私は今も昔も、「これが正解かな」と思ったことがどこか人とずれていることが多い。また、毎日同じことをするのが苦手だ。
小学校低学年の頃、「赤毛のアン」を読んだとき、主人公のアンが空想にふけってしまったり、場にそぐわないことを意図せずしてしまって「あれ・・・?」という空気になったりする場面は自分の話かと思った。赤毛のアンの"痛さ"が丁寧に描かれていて、「やっぱ痛いなー」と自分の"痛さ"も文字通り痛感した。でも、同時に「そういう人って海を超えてもいるみたいだし、この本自体が沢山の人に読まれているということは、アンの存在は共感もされるし愛されるんだな」と気づいてほっとした。(我ながらポジティブ 笑)

王道・スタンダード、の象徴「宮木みきこちゃん」

とは言え、人は自分に無いものに憧れるもので、王道・スタンダード・正攻法・同じ品質を保ち続ける、みたいなことに強い憧れを抱いていた。
週末の朝にやっている「皇室アルバム」というテレビ番組があり、皇室の方々がこの式典に出席した、などの映像が流れるだけなのだが、あの王道の最上級、極み、みたいな世界を好んで見ていた。
学校では、大好きな友達かつ憧れの存在がいた。「宮木みきこちゃん」だ。ツヤがあってまとまりのある細い髪を毎日三つ編みの二つぐくりにしていた。毎日宿題を出して、忘れ物が無くて(これはほとんどの人にとって当たり前かもだけど・・・)、筆圧薄めで字がキレイ。必要な時に必要なことを話し、私のようにうるさくない。つぶらな瞳がかわいらしくて、目力で人を威圧することも無い。
清潔感の塊のような、宮木みきこちゃん。
あんな風に毎日安定していられる強さ、かっこいい。

一方、私はというと、制服以外でアレンジ可能な範囲の「髪型」を創作対象として取り組んでいたので、先生が親に「毎日どんな髪型で来るのか楽しみです」と話していたほどだ。お洒落というより、"新しい髪型"開発を必死でしていた。今思うとよくもまあトンチンカンなことに情熱をかけていたものだ。(あの頃の自分には、そんなことよりお願いだから宿題してくれ、勉強してくれ、と言いたい。)

でも心の中では、毎日同じ髪型の宮木みきこちゃんに憧れている。
なので、二つぐぐりの三つ編みにした日は、宮木みきこちゃんのコスプレをしている気分だった。

画像1

瞑想は習慣になっているのか?

で、あれから30年経った今でも、同じことの繰り返しがなかなか苦手なので、仕事などでは、同じことでも時間を変えたり、場所を変えたり、PCじゃなくてスマホで、とツールを変えたり…とか、あれやこれやでなんとかやっている。

そんな私でも、ここ3年以上、毎日続いていることがある。
それがマインドフルネス瞑想だ。
きっかけはマインドフルネストレーナー講座の実践演習の一つとして毎日10分以上の瞑想を課せられていたことだ。
講座が終わったあとも、マインドフルネス瞑想自体が自分に良いことだと理解しているので続けている。
その時々で、マインドフルネス瞑想以外にヨガやセルフロミロミ(マッサージ)や呼吸法など、今の自分に必要だと思われるものを組み合わせて一定期間ルーティンにしていることが多い。飽きてきたタイミング ーだいたい数ヶ月単位ー で組み合わせを変えている感じだ。

でも、それって習慣なのか?というと、少し違う。
習慣というのは、ドアを閉めたら鍵をかける、とか無意識レベルで負担なくできることだと思う。ちなみに、よく習慣の例として出される「歯を磨く」は、私にとっては必要に迫られてやっている感じで、鍵をかけるレベルでは無い。
その点でいくと、マインドフルネス瞑想は習慣では無い。
「さあ、今日もやろーっと。」と明らかに意識してやっている。

画像2

毎朝ルーティンは宮木みきこちゃんへのオマージュ

でもそうやって、意識してでも続けられている根底にあるのはなんだろう?と考えて出てきた答えは「毎日同じことをする人への憧れ」だ。
そしてその象徴が私には「宮木みきこちゃん」なのだ。

毎朝瞑想をできているのは、「毎朝同じことをすると宮木みきこちゃんに近づけるのでは・・・」という思いが無意識にあるからだろう。

マインドフルネス瞑想って、「正解は無い」とか「欲を持たずにやるもの」と言われる。
でも私は、「悟り」は目指していないものの、「宮木みきこちゃん」を目指していたのではないか・・・?

いや、これは、目指す、というよりは「オマージュ」だ。

どう転んでも私は宮木みきこちゃんにはなれない。
けど、あんなふうに毎日安定していられる彼女に対して敬意を表すことはできる。

そんな気持ちを根底に持ちつつ、毎日瞑想に臨んでいる。
そう考えるとしっくりきた。

「瞑想」は私にとって永遠に習慣にはならず、毎日意識していくしか無いのだと気づいて、愕然とする気持ちも湧いた。
しかし、毎日自分にとって良いと思うことを続けられているのは、彼女の存在のお陰なのかもしれない。

いやはや、人間というのは、いろんなものに支えられて生きているものだなーとつくづく思った気づきだった。

(おしまい)

こんな私的な気づきに最後まで付き合ってくださった方どうもありがとうございます。最近、50名以上の方と毎日マインドフルネス瞑想を続けるという取り組みをしていて、私にとってのマインドフルネス瞑想ってなんなのかな?習慣になっているのだろうか、と疑問に思ったので書いてみました。
宮木みきこちゃん、じろじろ見ていたのでディティールまで鮮明に思い出せるのだけど、今ではどんな素敵な大人になっているのだろう、としばし思いをはせました。

▼痛さを面白がってくれるお二方とイベントやります


いいなと思ったら応援しよう!