短歌もらいましたⅦ✧♡
前回に続き永田和宏さんの「NHK短歌・作歌のヒント」から好きな短歌をいただきます。
この一首、初句の「するだろう」は当然、何を?という疑問を宙づりにしたまま、読者をそれ以降の句へと強引に引っ張っていくでしょう。青年特有のナルシシズムの影が強い一首ですが、とりわけ初句が印象に残る歌です。
一読して、かっこいいなあ!と思った。スキ。
多くの高校教科書に取り上げられている恋の歌。
先ほどの歌と共に、青春の歌という印象。ドラマチックで素敵。
竹山広は格調の高い歌を作る歌人と永田さん。荷をぞんざいに扱われたということは、自分をぞんざいに扱われたということと同じで、作者の、怒りが伝わってくる。その男のてきとうな仕事ぶりが伺える。ヤダな、そんな人が宅配便を持ってきたら。普段、私に、荷物を届けてくれる丁寧な仕事の人たちに感謝したくなった。
俵万智の歌集「プーさんの鼻」はいい歌集だと思い一気に読みました。一巻は、子を得て明るく、華やいだ雰囲気が感じられますが、その明るさの中にあって、これまでの俵万智の歌集の中ではもっとも悲しい歌集ではないかと思って読みました。(中略)胎児を詠んだ歌はこれまでにも多くありましたが、蹴り返す子に向かって「なーに思っていいるんだか」と呟いた母は、これまでになかった。恋人に話しかけるような口調でお腹の子供に呟いた言葉として、とても新鮮に感じられた事でした。
俵万智というとサラダ記念日のポップなイメージで、悲しいという言葉とは結び付かなかったが、この評を読み、読んでみたくなった。
作者の永田氏が若い時に、結構冒険だと思いながら、まあ、いいやと思い切って出した記憶のある一首だそうだ。
読むからに、若い青年の姿が目に浮かんで好感の持てる歌。
姉が猫を飼うようになって、なんだか猫に興味が出てきた。猫が塀の上でも歩いているのだろうか。手足を長く伸ばして、重心は上にある。そんな猫が、ふっと塀から消える。そんな景色が見えるようだ。永田さんは、結句をわざと、字足らずにして、その効果を狙ったらしい。
なるほど。そういうやりかたもアリねと勉強する私。
いつもいつも自分の心を深く見つめて歌うものだけが歌ではない、くらいに気安く思っておくことも必要ではないかと思うのです。漢字を見ていたら、ふとその一字からイメージが飛んだり、想像が膨らんだりすることもある。それだって立派に〈詩〉だと思うのです。
フォローしている伊織さんのねこ写もじの世界を思い出した。
いつも猫のかわいい姿にクスッとなる記事なのである。
ねこ写もじ、詩だったのかもしれないなあ( ´艸`)
永田氏曰く、「孫=可愛い」で完結している歌への不満を選者としては感じるそうだ。たしかに、それは歌を詠み始めた中高年者における、とても陳腐な歌になる。孫を題材に成功している歌はほとんど無いのだそうだが、さすが、茂吉。孫を題材にしながら全く違う切り口であるという一例としてあげられていた歌。ぶらぶらになるの意味も不明だし、孫が路上をあるいているのもなんだか不思議。
須佐之男命が八岐大蛇を退治して櫛名田比売と婚うときの歌と言われています。
いろんな歌人に混じって須佐之男命が登場した時には、須佐之男命って実在した?と、ギョッとした。よく見ると古事記。八の連打が文字の意味をそいでいく喜びの歌だそうだ。
第二次世界大戦後、すぐの歌。国民皆がお腹を空かせていた時代。山鳩の声がそんな風に聴こえた。ユーモアのある歌。
笑ってしまって、その後にそこはかとなく悲しさの漂う一首。
夕暮れ時、村を訪れた自分を盗賊に例えて、夕闇にまぎれて、と言う言葉や、盗賊のごとくわれは華やぐという表現が面白いと思った。これぐらい大胆に、自分の遭遇した出来事を詠んでみたい。
与謝野晶子の歌に会うと、一首選んでしまう。だって、なんか生き生きとして美人でかっこいいんだもの。
そして、母的な歌も、いつも選ぶ。実家の夢をよく見るが、必ず、仏壇のある暗い部屋。仏壇の父の写真の目がきろりと動くとか、その部屋に虫が巣くって蜘蛛の巣だらけとか、怪談っぽい夢を見ることがあった。
黒帯は、その仏壇のある部屋に重たい布団で寝せられたと語っていた。
確かに、母と姉と私は仲良く陽の入る2階に3人で、寝ていた記憶がある。
マジメな話、大人にならなくてもよいなら、母と姉と私と3人でずっと幸せに暮らしていたかったなあと思った。
それだけ、母子3人でいる時代は楽しかった。
この歌には母も説明も出てこないけれど、久々に実家に帰ってきた娘に年老いた母が部屋の奥から話しかけているような感じのする歌だ。短歌は説明を丁寧にするのではなく、読者に、もっと委ねてもいいものらしい。
永田さんのこの本も繰り返し読んでもいい本だ。
最近、読んでばかりいて、作ってないので、明日から、作る方に廻ろうと思った。
創らないと、自分が何を獲得できたかがわからない。