河合隼雄で語り合おう④✧♡
心理学は教師としての私を助けてきた。
「こころの処方箋」を再読して、この本は、今の自分が読んでもかなりオモシロい、深い本だということに気づく。
そして、若き自分が、頼りにしていたのは、その一つの章に書いてある、それぞれの見出しになった言葉であった。
呪文のように、自分のココロを守る様に使っていたことである。
最近、親しいと思っていたnoterさんに突然、ブロックされて驚いたが、その時に偶々、私が読んでいた本に、次のような言葉が出現していた。
「よくないことは、実はよいタイミングで起こっている」(小林正観)
「イヤだと思わなければイヤなことはなくなる」(小林正観)
「きみをきらいなやつはクズだよ」(木下龍也氏の短歌集のタイトル)
ブロックされた自分のココロが、まさに傷つきそうになっていたところに、これらの言葉がメッセージのように現れ、映画のCGのように、ガチガチガチと、心を鎧で覆っていくのを感じた。
私の心は守られ、真実に立ち向かう勇気を得た。
すべて起きたことは自分の責任と認めようか。
私が何かをしたらしい。
そう思った途端に、すぅっとそのことから離れる自分を感じた。
不思議である。
そして、その鎧のように自分のココロを守っている情報場のことを想像してみた。たぶん、自分はこうあろうとする言葉が、自分と言う人間の心を取り囲むように飛び交っている。
そんな情報場を、1人1人の人間が持っていることが、なんだかイメージされた。面白いなと思ったのは、ブロックされた事実は変化していないのに関わらず、私の側の呪文で、防御できたことだ。
「きみをきらいなやつはクズだよ」
ほんとうはブロックされるぐらい嫌われた私の方がクズかもしれないが、私がこの呪文を唱えることによって、私の心が守られたのだ( ゚Д゚)!
(相手をクズだとはホントは思ってないよw)
言葉のチカラは凄いことに、改めて気が付いた。
私は、「こころの処方箋」で出会った河合隼雄氏の言葉を呪文として、美術教師という仕事を60歳まで、辞めずに続けることが出来た。
河合隼雄の言葉は、教師としての自分のココロを守る役割をずいぶんしてくれたと気が付いたのである。
私が、教師としての情報場を作っていた言葉を、「こころの処方箋」から引用してみる。
ひとのこころなどわかるはずがない。
心の専門家の、この言葉にはとても助けられた。「わからない」ということを知っているのは専門家だからと河合氏は言う。私のような若い教師に生徒の気持ちがわかるはずがない。生徒の心が分からなくても、うまくいかなくても、わかろうと努力して、寄り添うことにしよう。
100%正しい忠告は役に立たない。
若い教師時代、生徒に、100%正しい忠告ばかりしていた。それが全く無駄だということを教えてくれた言葉。自分の感じる真実を述べなければならない。そういう言葉しか、生徒には届かないのだ。
説教の長さとその効果は反比例する。
子どもは長いほど聴いていない( ´艸`)
自立は依存によって裏付けられている。
親に甘えたものが自立できること、さんざん遊びにハマったものが卒業できること。
うそは常備薬、真実は劇薬
嘘は悪いもの、と信じていたが、トム・ソーヤの冒険に「やさしい嘘」という章が出てきて、いい嘘もあるらしい。真実を正しいと思いがちだが、真実は劇薬で危険でもあることも知る。
強いものだけが感謝できる
弱いものは周りの誰かを傷つけ、暴れ、最も手をかけた者は、ただ立ち去る。ほとんど君には私は何もしていないという生徒が私に感謝を述べるのを見てきた。
物が豊かになると子育てが難しくなる
現代は、世の中が豊かになった分、子育てが複雑になった。子供の選択肢が増えるというのは、人生が難しくなることでもある。
昔は貧しく、シンプルで単純で、選択肢は一つだった。今は、豊かだから、山のようにある沢山の選択肢から、選ぶことは、親子共々、きつい事ではないだろうか?
「知る」ことによって二次災害を防げる
学級担任での失敗が続いた私は、次第に自分の何が教師としてダメなのか、分かり始めた。自分がダメな教師だと認めるのは辛いが、認めて一歩ずつそこから這い上がって行くしかない。
しかし、また失敗するのでは?という恐怖はいつもそこにある。
中学校教師から高校教師になり、高校教師として、担任をすることになった。怖かったが、河合隼雄氏の「二次災害」は防げるという言葉に助けられた。私も30代を過ぎていたし、河合氏から得たいろいろな知識を手にしていた。自分とは違うタイプの生徒の話は徹底して聴く。話を聴くのは、君の味方であるということ。高校生は中学生と違って荒れ狂う嵐ではなく、話せばわかってくれるぐらい大人だということも有難かった。
私は、教師をしながら一つづつ現れる壁を越えてきた。
私に不愉快なこと、理不尽なことを運んでくるのは、大概、いつも仕事だ。そしてそのことが嫌で嫌でたまらない。
その壁を、嫌だと思わずに、受け入れるまでは、神様は卒業を許しては、くれない。自分が解決しないかぎり、同じ壁は姿形を変え、やってくる。
目に見えている世界の原因はすべて自分にある。
これを認めて、解決策を練らなければ、世界は変わらない。
心を変えて、すべてを受け入れ覚悟を決めると、いつの間にか、修業は終わる。
・・・と、ここまで書いて、あの言葉が心に浮かんだ。
マジメも休み休み言え。
教師というカタイ仕事を語るためにマジメすぎたw
この記事を投稿する気にならないまま数週間がすぎる。
昨日、100分de名著の「ドリトル先生航海記」の録画を見た。冒険に出かけたドリトル先生御一行は、ある島の村人を助け大活躍。
なんとそこの王になるようにと指名を受ける。面白いのが、名前まで変えられてしまうところ。
ドリトルという名前からシンカロットという名前に。
ドリトルという名前は「Do little」すこしやる。
シンカロットという名前は「Think a lot」たくさん考える。
ドリトル先生は、王になることで、仕事をすこしやる人からたくさん考える人に変身しなければならなかったのだ。
仕事をすこしやる先生は、「オサボリ先生」と訳されていた。
まさに私は「ドリトル先生」、「おさぼり先生」だったな( ´艸`)
河合隼雄さんの話で、一番衝撃を受けたのは、魂と心は違うものであること。
心は努力をしたがるが、魂はさぼりたがっている。
心の努力に身を任せていると、いつしか魂に少しずつちりがふりつもってくる、と隼雄さんは言う。職場には、もしかしたら、仕事よりも魂を大事にしている人がいるかもしれませんよ。
同僚で、気が強く、バリバリ仕事していた人が、何かがあって仕事を途中でやめるということが、何度かあった。途中で、ぽきんと心が折れたのだ。
我が身を振り返ると、強い風が吹けばそれに身を任せ、なびいて、それと正面から、戦わなかったのではないか。脇の方から、こんくらいでよし、と折れない程度で、立ち向かった気がする。
心の暴走に振り回され、魂が叫ぶ前に、適度にさぼった。
本当にタイミングよく風邪をひいたり、用事があるふりして早退し、さっぱりすることをやりにいったりした。
ぽきんと折れて終了する前に、自主的にガス抜きしてきたのが自分だと思い出したのである。
マジメな人ほど、自分を許さないから、さぼらずにぽきんと折れる。
やはり、マジメも休み休み言え、だ。
現在、仕事に忙しいみなさんも、倒れる前に、自主的に「おさぼり先生」になってみてください。
あなたの魂はさぼりたがっているかもしれません( ´艸`)
私が今日、楽しく自由人をしているのは
すべて貴方のおかげです。
河合隼雄『で』語り合おう✧♡