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詩の朗読会✧♡
22日金曜日に、やさぐれと、詩の朗読会を決行しました。
現役のやさぐれと自由人の私。
一応その金曜日が、仕事の一区切りということで、やさぐれがカラオケ合衆国の17時半をすでに予約した!という話に私が潜り込んだのです。
ちょっとかっこつけましたが、カラオケです( ´艸`)
でも、2人の歌うすべてが、秋田ひろむの詩の朗読とも言えるのです。
初めは私の好きなマイケルの歌などをかけて歌わずに、1時間ぐらい、やさぐれの仕事の話を聴きました。
私は卒業したやつだけど、働いている人はね!
絶対、いろいろ、ジレンマあるよね。
自分が若いころ学級崩壊するようなアホな教師だった話とか、やさぐれの現在の話とか、ついつい話してましたね。
なんかいいガス抜きになって良かったと思います。
初めは生ビールで乾杯し、互いに持ってきたチーズとサラミとかほたてのひもとか齧りながら( ´艸`)、次第に秋田ひろむの歌を歌いました。
互いに、彼について語り合いました。
明らかに成功しているだろうけど、歌の中に「くそくらえ!マネタイズ」ってあるってことは、どこかその商業的成功に傷ついている感じもある。
身を削って、血の混じった作品を作っているんだろうねと話しながら、ひたすら歌ったり朗読したり、話をしたり、笑ったり。
印象的だったのは、秋田ひろむのほぼ朗読みたいな歌詞を、やさぐれが、津軽弁で朗読していたことです。
それがなんだか面白かった。(2人とも津軽人です)
津軽には高木恭造という有名な詩人の「まるめろ」っていう詩があり、実は20代の時に、本人の朗読会に参加したこともあります。
レコードも持ってますw。(←母の家にあるな)
本物の朗読を聴いた最後の世代かもしれませんが、数年前、弘前市の文学館で、彼の朗読を聴いた時、思わず、大爆笑してしまいました。
その詩自体は、貧しい村の、貧しい生活を読んだものだったのですが、あまりにもあまりにもで、悲惨さが笑いに転じて大笑いした体験です。
あんなに悲惨な「陽コあだネ村」(太陽さえ当たらない村)なのに、なんであんなに可笑しかったのか。凄い。
悲惨すぎて希望が見えてくるのが、ちょっとamazarashiに似てるw!
言葉って不思議だなあと思います。
すげ!youtubeにあった!!!( ´艸`)
クリキさんしか分からないかもしれないけど、あえて貼っておきます笑。
大笑いした体験と言えば、ベケットの劇を舞台を創ろうとしているダンサー達と朗読していた経験があるのですが、その時も台詞を読んでいるうちに可笑しくて可笑しくて大爆笑してしまった経験があります。
文字をただ目で追っている時はその可笑しさに気が付かなかったのですが、みなで代わりばんこに朗読し合っているうちに、
これって、作者一流のギャグじゃないか?という気がして、笑いが止まらなくなったのです。おかしなことに、大笑いしたのは私だけで。
4~5人いた人たちは、にこりともしていなかった。
演出家が、言いました。
「あやのんさん、そうなんです。これは可笑しいんですよ」
その可笑しさに気が付いていたのが演出家と私だけだったという不思議な思い出。
高木恭造の詩も、あまりに、津軽弁が迫って来て、悲惨な詩なのに大笑いしてしまった。次のやさぐれとの詩の朗読会には高木恭造の詩集を持って行こうと思いました。
結局やさぐれと私は、頼んだり、持ち込んだアルコール、生ビールや日本酒や、ジンジャーエールやコーヒーやコーンスープを飲みながら、2人で午前過ぎまで朗読会を続けました。
終わった時に、しまった、やさぐれの家はここから30分の距離だったという反省がありました。(←なんと私は5分w)
歩く体力を残して置かなければならなかったなと。
いや、しかし、推しの詩を朗読したり、歌うのはとても楽しかったです。この芸術的、衝動はなんなのかな?と思いつつ、きっとまだまだ続けることでしょう。
ミュージシャンでもないのに歌う。
まずは歌を歌う立場に立とうと言う気になぜかなった。
へたでもいいから秋田ひろむみたいに歌って見たい。
練習してなんとかなるなら、スコシはましに歌って見たい。
へたな歌い手(詩人?)になる決心をしました。(カラオケ笑)
まずは、自分でバッターボックスに立ったのですwww