木のいのち木のこころ①(天)
図書部のある主任がよく本を捨てる人で、新陳代謝のためには多大なる功績をした人。除籍した本がよく図書準備室の前に置いてあった。
「ご自由にどうぞ!」と言う言葉と共に。
一度、捨てる本?と疑問を抱きつつ、そこから久世光彦『一九三四年冬―乱歩』(青春と読書掲載時「乱歩で散歩」)を持ち帰った。
しかし。
今回置いていたのは、この3冊。
まじ?こんな良さそうな本、簡単に捨てますかあ~??????
と驚きが先に立った。
主任のことは嫌いではなかったが、この本を簡単に捨てる人とは、確かに友達になれないタイプかもしれない。今までも「えええええ!」という事件があったが、知らないふりをした。
この本を3冊じっくり読むまでは、それに気付かなかった。
読んでもいないのに、なぜ、この本のことを知っていたのだろう。
この本が出た時期に、ちょうど、この本の西岡常一さんという法隆寺の宮大工のことが、ドキュメンタリーでも、話題になっていたのではないか。
本を読んでいないのに、宮大工は凄い!というおぼろげな記憶。
そして、その話をしていた大好きな恩師のことが思い浮かぶ。
まさか、仕事をやめる1年前に、この本に再会するとは思わなかった。
この本が凄いらしいと知っている。しかし、読んだことも無く、2023年の6月、この本を読むタイミングが訪れた。
毎月、行く美容院で、美容師さんの息子が中学生で、高校受験をするという話をしていた。彼女は、私のマンガのモデルになったキタキタ高校の卒業生。もしかして、息子さんもキタキタ高校に行くんですか?と聞く中で、彼女が突然、「将来、息子は宮大工になって欲しい」と言ったのである。
ああそう。お母さんが思っているだけじゃどうしようもないかもしれないけれど、私はいい本がありますと、一か月前に、彼女に言ったのだ。
貸す前に、私が読んでいないというのも、マヌケな話。
シゴトの忙しさにかまけて、読んでもいなかった。
貸すため、しかも、息子が読むとしたら、1年ぐらい貸してもいい。まあ、まずこの本の存在を知らなかったようなので、母が読んでいるだけでもいいではないか。
この本の順番に読んだ。一冊目。
「木のいのち木のこころ [天] 西岡常一」
法隆寺の大工だった西岡さんの話から読んだ。
この本は1993年12月3日 初版であり、1994年2月16日 九刷とある。
だいたい20年ぐらい前に、キタキタ高校にやってきた本だと言うことだ。昔は本の後ろに借りた人の名前を記入するカードがついている。残念ながらそのカードには誰の名前も書いていない。
誰も借りなかった本なのだろうか。
主任は合理的な男だ。生徒の貸し出しの無い、古い本から機械的に捨てたのかもしれない。しかし、バーコードでの貸し出しになってからは、誰かが借りていたのではないか?
まてよ?
守護霊的に言うと、彼が捨てたことによって、私の手元にこの素敵な本が3冊プレゼントされた。彼があえての悪役を買ってくれて、この本は、私が手にすることになっていた気がしてきた。
この本の感想を一言も書いていないのに、1500字に到達しそう。
7月23日は、美容院に行く日。
「金髪、続行でお願いします」
と先生に言って、ブリーチして帰ってきた。
この3冊の本の感想をnoteに投稿できれば、彼女に貸せるのに、と思って、長い待ち時間に感想をまとめようと、メモ帳と本3冊を袋に入れて持って行ったのだ。
しかし、まえがきを読んだ途端に貸すことを諦めた。
法隆寺の鬼が語る、まえがきが凄すぎて。(つづく)