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自分が間違っているかもしれないってのは怖いかい?
本を読むのが好きだ。
小説も漫画もちょっと背伸びした難しい本も読む。
将来的には家中が本だらけになったら嬉しい。
本に囲まれて生活したい。
ある人に、「最近何してるの?」と聞かれた。
その人は、ゲームの中で知り合った人だ。久々に話した。
その時はゲーム停滞期だったため、「本読んでるか寝てる」と答えた。
「どんな本?」
「漫画も小説も専門書も、何でも」
「本の虫だな」
「そうなのかな?」
もし就職することがあるとすれば、履歴書の前職の欄には“本の虫”と書いておこう。
ところで、本というものは読むだけではいけない。
何かを自分の中に取り込まないといけないと思うのだ。
難しいことを考えろとは言わない。
ただ面白いと感動するだけでもいい。
私は、気になる文章や単語にはシャープペンシル(鉛筆でも可)で印しをつける。
シャープペンシルを持っていなければつけられないので仕方がないが。
そこで、何かを得る。
その次の段階が、自分にとっては困難極まりない状況に陥る決定打となるのだ。
まず、何かを得たところで、自分が感じたその“何か”についての解釈は正しいのか、間違っているのかというところだ。
私はそこで思い悩んでしまうのだ。
「自分が得たこの考えは間違っているかもしれない」
と。
何をどう受け止めるかはその人次第なのに、自分が間違っているかもしれないということを異常に気にしてしまうのだ。
自分がどう思ったか、相手は何を感じたか。
noteを利用して感想文を書き、表現すれば良い。
しかし、表現をしようとする前提に、“自分の意見が間違っているかもしれない恐怖”というものが邪魔をして、本の感想など書けやしない。
ましてや、感想文の書き方から間違っているかもしれないという、どうでもよい不安さえ出てくる。
最悪、小学生くらいの文章力があれば、自分の感じたことくらいは表現できるだろうに……
結局のところ、自分がその本を読んで、感じたこと、疑問に思ったこと、理解したことを、自分の言葉で表現しまとめなければ本当の理解と言えるはずがないのに、それらを最後までまとめ上げずに野放しにすることで、本を読んで得たことが宙ぶらりんになってそのうちガスの入った風船と一緒に宇宙へ飛んでいってしまうのだ。
なんの学習にもなっていない。
自分に聞こう。
「自分が間違っているかもしれないってのは怖いかい?」
先ずは、本を読んだら拙くても良いので必ず自分の考えを文字に起こして記録しておくことが大事だと思う。
そこへ至ったのは、学生の頃から作文が苦手なくせに書くことは好きだったから。
自分の考えを自由に書くのは好きだった。
校外学習の作文は大嫌いで、提出したことがなかった。
そんな人間が、今、作文しているのだ。
こんな風に書いていても、最初は支離滅裂だろう。
仕方がない。
ここで練習させていただきますので、何卒よろしくお願いいたします。
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