書きたいことを書けない日の、ちょっとした安心
最近、noteに書く内容を考えるたびに、少しだけ緊張を感じることがあります。
実は書きたいことはたくさんあるのですが、頭に浮かぶのは「これは自分のことを表しすぎかな?」「少し説教くさいかな?」という考え。読んでくれる人が増えてきてくれたおかげか、読み手の存在をより意識するようになってきました。
昨日、ふとBLEACHの話題をnoteに書きました。
ギリギリまで別のことを書いていたのですが、どうしても表に出す勇気がなく、代替案として突貫的に書いちゃいました。
あ、BLEACHを観ていた事実には嘘偽りはありませんよ。
特に考えすぎることなく、単純に「楽しい!」という気持ちだけをもとに書いた投稿。
肩の力が抜けて、「まあ、たまにはこんな投稿もいいかな」と思えた。
投稿した後は、なんでこんな記事書いたんだろうという気持ちもあったものの、書けた後の気楽さにとても救われました。
本当に書きたいことほど、どこかで自分をさらけ出すのが怖いのかもしれません。そんなとき、気楽なテーマに救われることがあるのは、不思議なものです。
気楽な話題が、意外と心を解放してくれる
本当に書きたいことって、気持ちがこもりすぎていて、どうしても「これでいいのかな?」と身構えてしまう瞬間が多いです。自分はあまり強い人間ではないので、毎日、蚤の心臓を抑え込みながら「公開する」をクリックしています。
でも、そんなときこそ、軽くて無邪気な話題を書くことがどれだけ気楽で大切なことかを実感します。
私は、このnoteの投稿で、自分と似たような考えや目標を持つ人とゆるく繋がりたいなと思っています。一緒に楽しんだり、励ましあったりしながら、もし何か機会があったら、一緒に楽しいことをやれるのもいいかも、なんて妄想していたりもします。
最近は気づけば、深いことを書こうとして、自分のなかでどんどん膨らんでいく想いを、うまく言葉にできなくて窮屈に感じていることも多かったのです。
でも、気軽に好きな作品について書くだけで、少しずつ心の重みが和らいでいくのを感じます。
交換ノートで友達に面白いものを語る時のような、ワクワクした気持ちで文章を書けたのがとても楽しかったです。
自己開示に疲れる日もあるからこそ、心の軽さが大切
書く、ということはどういう形であれ、他者に向けての自己開示の一つ。
毎日投稿を考えるようになって、自己開示をするのってこんなに疲れるものなんだなぁと実感しています。
たとえば、BLEACHのキャラクターについて夢中になって書くとき、私は少しだけ自分の「好き」な部分を表に出しています。
深刻さや意図的な自己開示ではない、ただの「好き」だから、そこには抵抗も少ない。
何かを語りたい気持ちはたくさんあるけれど、ときにはただ好きなことに夢中になって、少しだけ自分を解放することも必要だなと感じます。
実はこの「どうでもいいことを書ける」という気楽さこそ、自分を少し楽にするヒントなのかもしれません。
真剣に書きたいことは、じっくり温めておけばいい。ときどき力を抜いて、「なんでもないこと」を書き出せる余裕が、また次に進むための力になってくれる気がします。
書くことで得られる心の余裕
「軽く書く」ことは、私にとって少し自分を遠くから眺めるような行為でもあります。
いつもと違う視点で自分を見つめると、「自己開示」を意識しすぎずに、自分の感覚や気持ちを自然に表に出せるのです。こうした軽さが、自分に対する新しい気づきや、心の余裕をもたらしてくれるのかもしれません。
それに、意外なことに、こうした「軽さ」を日々に取り入れることで、書くことがただの習慣以上の、心をゆるめるツールになっていく。
軽い話題で自分を表現することで、少しホッとするのが今の自分には必要な気がしています。
なので、ずっと書き続けられる方達の胆力はすごいなと感じます。アーティストや、いろんな自己表現をする人たちって、こんなプレッシャーの中いろんなことをしているんですね。
心にある重いテーマも、きっとある日ふと、何気ない出来事の延長として、書けるようになる。
そんなときを待ちながら、今日も少しだけ軽やかな言葉を並べてみたいと思います。