『太平記』の一の谷:湊川合戦は生田の森の戦い!?
『太平記』によると、湊川合戦の際、足利直義の軍勢が、須磨の上野と鹿松岡鵯越から、湊川の湊川の西の宿(会下山らしい)に陣取った楠木正成を攻めている。この時、新田義貞の軍は和田岬に布陣していたそうだ。
むかしは須磨寺(正式名称は上野山福祥寺らしい。義経が敦盛の首実検をしたらしい。)のあたりと一の谷2丁目のあたりも「須磨の上野」と呼んだらしいから、『太平記』に登場する「須磨の上野」は一の谷の辺りと考えても良いだろう。会下山から見た方角的にも大きな間違いとは言えないだろう。
足利勢は、一の谷の方角と鹿松岡鵯越から会下山を攻めたが、鹿松岡鵯越からの攻撃を奇襲などとは呼んでいない。
新田義貞が陣取った和田岬は大輪田の泊とだいたい同じ場所で、会下山の楠木正成は和田岬の新田義貞を陸からの攻撃から守るための布陣ということなのだろう。
『太平記』によると足利勢が生田の森に上陸したので、新田義貞は退路を断たれるのを恐れて、西の宮まで撤退し、その結果会下山の楠木正成兄弟が孤立し、自刃したということになっている。
退路というのは、兵站(補給路)も兼ねているので、一の谷の戦いでいえば、生田の森に源範頼の軍が来て、一の谷を源義経が落としたのと丁度東西が逆になっている。
平家は都落ちの後、盛り返して九州、四国、備前(備中水島)、播磨(室)を経て福原へ戻ってきたので退路や補給路は一の谷の側(西)になり、楠木正成や新田義貞は京都や千早赤阪村から来ていたので退路や補給路は生田の森側(東)になる。
一の谷の戦いも湊川合戦も退路(補給路)を断たれた方が早々に撤退している。
なにがいいたいかというと、鵯越兵庫区説の方々は、鵯越からの奇襲攻撃が勝敗を決する重要なことのように主張されているが、普通に考えると、退路と兵站(補給路、有視界通信網含む)を断つことが、勝敗を決するということだ。
『平家物語』の一の谷の戦いでは一の谷を落として平家の退路と兵站(補給路)を断つこと、『太平記』では生田の森に上陸することで新田勢の退路と兵站(補給路)を断つことが、戦略上重要だったということだ。
城郭建築の発達した戦国時代の荒木村重の謀反の時も、信長に一の谷から昆陽まで包囲されて兵站を断たれ、播磨と摂津の西の制海権を押さえられてしまうと、毛利勢の援軍(籠城の前提のはず?だが・・・『信長公記』には村重謀反の理由はなかったような気がするが。)がなければ、村重は伊丹、尼崎、花隈、中国へと落ちて行くしかなかった。
平家や新田勢が退路と兵站(補給路、有視界通信網含む)を断たれた状態で、大輪田の泊(和田岬)で戦闘を続ければ、荒木村重と同じようになっていたことは、想像に難くない。
『太平記』では、楠木正成兄弟が6回ほど会下山から須磨の上野あたりまで押し返して物語を盛り上げて、湊川合戦(会下山の東が湊川)らしい表現になっているが、一の谷の戦いと同じネーミング方法(勝敗を決する要所の地名+戦い)なら、生田の森の戦いになっていたことだろう。