嫉妬の感情と、そろそろおさらばしたいんだ。
Noteの下書きを見返していたら、
昨年三月に書いていた記事が公開にならないまま放置されていた。
“人と比べて、できない自分が嫌になる。”
そんな感情を葬りたいがために、出先の熊本空港の出発ロビーで、がむしゃらに書いていたのを思い出した。
平野啓一郎の「分人主義」という考え方を知ってから、自分を少し認めてあげられるようになった気がする。だからその記念に、この記事を公開してみようと思う。
嫉妬心たちの供養
今日は仕事で熊本を訪れていた。前日入りをしたから気持ちは余裕があってのびのびしている。おまけに、そばを流れる川辺には菜の花が咲いていて、なんだか気持ちいい。
心が自由になったら、ずっと悩んでいたことを思い出した。
大学に入ってから私は嫉妬深くなった。
これは、厳しい校則があった女子校に通っていた中高時代にはあまりなかったことだった。
自称進学校だったから、頭が良いことが善だった。みんな「成績」という同じフールドで戦う。緩い部活に入り、勉強もそれなりに努力したから、沸き立つ嫉妬心とは無縁の生活だった。
でも、大学に入ったら大きく変わった。大学っていうのは、本当にとても自由だったから。
怠けるもよし、努力するもよし。恋愛に惚けても、バイトに身を捧げても、図書館に篭り博覧強記になろうが、誰も何も言わない。構わない。
特定のフィールドで評価することがなくなる大学時代は、「総合点」で自分たちの見え方を測ることになる。
「容姿がいいこと」「自分のやりたいことを一生懸命成し遂げていること」
「大学の成績がいいこと」「社会に貢献していること」「自分の事業を持つこと」「自分の感性が鋭いこと」「芸術的なセンスに秀でていること」
「信頼できる親友達に囲まれていること」
多種多様なフィールドで得た点数を掛け合わせて、総合点を競い合う日々。
FBに流れてくる、美しいストーリーとともに語られる輝かしい生活。インスタグラムで公開される親友との日々、恋人との甘い時間。
それらを目にするたび、心がざわめいた。
不安になった。
自分は頑張っているのか?
自分に価値はあるのか?焦燥感に駆られた。
私は平均以上の「成績」を出せているのか?
就活を終えて、自分の見てくれや評価から自然と遠のく日々が続いた。
そんな今、ハッとして思う。一体全体、
私は…何と戦ってきたんだ??
上を見ても下を見ても、何もないんじゃない?
上を見て、足りない自分を嘆くこと、
下を見て、満ち足りた自分に安心すること、
これに何の意味があるんだろう。
「この子はすごい。自分には無理だから挑戦するのはやめておこう。」
「自分の方が劣ってるから彼女とは釣り合わないな。」
そんな感情に意味はない。
他人と自分を比べて、自分にとって残酷な選択をなんども繰り返して、どんどん足元が泥沼に飲み込まれていく感じがする。
私は、中高時代に嫉妬心がなかったわけではないと気づいた。きっと周りより、良い成績を取れていなかったら嫉妬の葉が芽を出して、
それが心を覆っていたはずだ。
他者との関係性がなければ、自己は成り立たない。
けれど、もっと確かなのは、自分は自分の心と肉体と、うまくやっていかなきゃいけないということ。死ぬまでずっと。自分しか自分に責任を取れる人はいない。究極家族だって恋人だって、他人なのだ。
だったら自分が自分を認めてあげなくてどうする?
周りと持ち物比べて 色々と欲しくなって
最近お気に入りで聴いていた歌の詩中に、答えを見つけた気がした。
”これだけで十分なのに (BASI REMIX)”
これから 嫉妬が芽を出したら、この歌を聞こうと思う。いきなり変わるのは難しいけれど、少しずつ、マイペースな自分を褒めてあげられるようになるまで。
自分は自分の道を、自分のやり方で進みたいな。
2021年、社会人一年目として働き始めた私だが、
最近は、冒頭にも触れた、分人主義の考え方にだいぶ、いや かなり、救われている。
全ての自分を受け入れ、誰と接している時の自分も大好き!と言い切るのは難しいけれど、
例えば、「趣味のギター仲間と過ごす時間は好きだな」とか、「〇〇先輩と話しているときの自分は萎縮して本音が言えないから嫌いだ」とか、「あのお客さんとは会話の波長が合って、そんな自分は好きだ」等々。好きな分人が複数あれば、そこから自分を認めてあげることができるようになる気がする。
今いる場所が辛ければ、自分の好きな分人でいられる他人(コミュニティ)を探しに行こう!みたいな行動も起こしていけると思う。
2021年もマイペースに頑張っていきましょう〜!
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