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【回想録】 偉人 音楽評論家 ・野村光一先生との思い出 - 歴史的書物

野村 光一 (1895-1988)
大阪府生まれ。 京都府立第二中学校(現・京都府立鳥羽高等学校)を経て、1920年、慶應義塾大学文学部哲学科卒業。 小宮豊隆に師事。 1921年に渡英。 ロンドンの王立音楽アカデミーでピアノを学ぶ。 このころ、ブゾーニやラフマニノフの演奏に接する。 さらにドイツに渡り、1923年に帰国した後、新聞や雑誌で評論活動をおこなう。 1932年に堀内敬三らと「音楽コンクール」(現「日本音楽コンクール」)の創設に関わり、このコンクールの発足時から審査委員長と理事を務める。
                           (Wikipediaより)

野村光一先生との出会い
私のプロフィールでも述べましたが、我が家には音楽に関わる人が誰もおらず、当時、私が4歳の時にピアノを始めることになった際、父はどのようにして先生を見つければ良いのか困っておりました。
今の様にコンピューターも携帯電話もない時代です。
『勉強するなら、良い先生のもとで学ばせたい』と真剣に考えてくれた父には今でも感謝しています。

親交のあった画家の里見勝蔵先生は鎌倉に住んでおり、父とは良き相談相手であり、また良き飲み友達でもありました。鎌倉の先生宅でいつものように楽しく飲んでいる最中に、父が『子供がピアノを弾きたいと言うが、ピアノの先生を探すのに困っている』と話したところ、里見先生は『親友に音楽評論家がいるから、彼に聞いてみよう』と言いました。

野村光一先生宅にて
私が高校生の頃

夜も遅い時間でしたが里見先生は野村光一先生に電話をかけ始めました。父は失礼だからと慌てて止めようとしましたが、「腐れ縁の仲」と言い張って電話をかけてしまいました。

野村先生は嫌みひとつ言わず、それどころか快くお話を受け、すぐに一人のピアノの先生のお名前を教えてくださいました。その先生は基礎をしっかりと教える方であり、彼女に任せておけば間違いないとのことでした。そして私は当時桐朋音楽大学の講師であった岡本美智子先生のもとでピアノを始めることになりました。

父が写してくれたのですが、1枚目を写した後、
父が後に隠れていた油絵も一緒に入れたいと言い出して2枚目を。
確か佐伯祐三の絵画だったと思います。

お二人は小さい頃から大親友だったそうです。小学校時代、里見勝蔵先生はバイオリンを習いながら将来は音楽家を目指し、一方で野村光一先生は絵が好きで画家になりたいと思っていました。
しかし実際には、里見勝蔵先生が画家となり、野村光一先生が音楽評論家となったのです。まさに腐れ縁とも言える、長年の関係があったお二人です。

昭和9年1月発行(初版)
中央公論社
価格: 1圓80銭
里見勝蔵先生に贈られた著書

800ページにも及ぶこの本には、当時としては考えられないほど多くの情報が詰め込まれています。
海外の演奏家、室内楽、オーケストラ、作曲家、楽曲の録音情報に加え、邦楽にも言及しています。また、貴重な昔の写真も多く掲載されています。

この幅広い情報を当時収集していたことには驚かされますが、それ以上に、多くの演奏に触れた上での解説や感想まで記録されている点は、まさに歴史的資料と言えるでしょう。
唯一の難点は、当時使用されていた漢字が難解であることです。

以下に、目次の一部と写真の一部を掲載いたします。

この2枚の写真は後から貼り付けた物
多分雑誌の切り抜きかと思います。

演奏家や演奏への評価は、非常に深い洞察に基づいており、的確でわかりやすい表現によって丁寧に記述されています。
まるでその演奏が実際に聞こえてくるかのように感じられます。著者を実際に知っているからこそ、その人間性が伝わり、一層心に響くのかもしれません。

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綾クレバーン
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