見出し画像

ジフテリアに罹患した私(昭和17年)

昭和十七年二月十五日、日本の戦果はシンガポール占領で頂点に達し、大東亜戦争第一次祝賀国民大会が開催され、酒、菓子、あずきなどが特配された。
しかしこの年の六月五日、ミッドウェー海戦で日本は四隻の空母を失い、戦局は一気に悪化した。

そんな時期、宇都宮では法定伝染病のジフテリアが軍隊の兵士の間から流行してきた。
我が家の隣の四歳の女の子がジフテリアで亡くなった。
それから十日程過ぎた頃、私は風邪を引き、学校を休んで寝ていたが、いつまで経っても三十八度台の熱が下がらず、喉が痛かった。買い薬では治らず、どんどん病状が進み、食べ物も喉を通らず、体力が衰えていくばかりだった。これはおかしい、もう病院に行くしか方法がない、と起き上がってみたが、苦しくて倒れ込んでしまうのだ。母もやっと気がついてくれた。
その頃母は、県庁に勤めていて、忙しい身であったが、一日休暇をもらい、病院に連れて行ってくれた。私は倒れそうになりながらも、当時タクシーもない時代だったので、頑張って歩いて行くしかない。フラフラしながらやっとN耳鼻科に辿り着いた。

診察した先生は「ああ、これは困ったな」とおっしゃって、頭を抱え込んだ。
この時母は、「先生、もしかしたら小学校の時の同級生のNさんじゃありませんか。私、高橋です。」と話しかけた。
先生はびっくりして「えっ!! 高橋さん? いやー、お久しぶり。奇遇ですね。」とおっしゃった。
そして「高橋さんのお嬢さんじゃ、助けないわけにはいかないな」と暫く考えていたが、「お嬢さんはジフテリアです。しかし血清は軍隊にしかありません。市井の患者を助けるより兵士を助けることを優先するのが、今の国策なんですよ」と困った顔をした。
しばらく考えていたが、「よし、衛生兵に頼んで、一本血清を持ってこさせよう」とおっしゃって、急ぎ電話を掛けてくれた。たまたまN先生が宇都宮関東師団の軍医であったからだ。

私は即入院をし、衛生兵が届けてくれた血清を注射してもらい、一ヵ月入院の後、命拾いをして退院することができたのである。N医師が母の同級生でなかったらどうなっただろう。国策だからと見放されたに違いない。
奇跡的生還だった。
但し、退院の時に先生から大事な注意を受けた。
「この血清注射は今後二度と打てません。若し忘れてジフテリアの予防注射など受けたら、ショック死することもあります。忘れないでください。もう一つは、血清は馬の血で人体にとって異物です。今、しばらく心臓に負担がかかるので、三ヵ月間ぐらいは無理な運動や労働は避けるように」と言うことだった。
私は退院して、まだ少し無理だったが、登校した。
担任の先生や体育の先生に報告して、体育は休ませてもらった。

いいなと思ったら応援しよう!