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いつか役に立つ日がきっと来る

「こんなこと勉強したって将来なんの役にも立たない」
「役に立たないことばっかり勉強するのは効率が悪い」
って、普段一緒に勉強している高校生たちが口々に言うのですが、
そして、「古文なんてなんの役にも立たない」ととりわけ日本の古文を目の敵にする大人も少なくなかったりしますが、
勉強は役に立たないかというと決してそんなことはない、その考えを記してみたいと思います。

今年から高校の学習指導要領が変わり、評価が「思考・判断・表現」に重きを置いてきているようです。

ということはどういうことかというと
通信制高校のレポートに
「なぜ黒船が日本に来航したのか、複数の資料を見比べて考えを二百字でまとめなさい」
「第一次世界大戦が長期化した理由を資料から推察して書きなさい」

なんて問題が増えたのでした。

通信制高校の場合、定められたスクーリング回数を満たし、かつレポート提出ができていれば試験を受けることができることと、
授業とレポートがタイムリーに展開されているというわけでもないらしく、
とにかく早く試験を受けたいために次々とレポートを提出する生徒も多くいて、だいたいはまっさらの状態で課題にあたるわけです。

勤務しているフリースクールの場合ですと、まっさらの状態で生徒と私とが課題にあたっています。

ちなみに先ほどの設問は、このたび新しく登場した「歴史総合」という科目の課題です。

私が高校生の頃は、日本史、世界史、地理の中から二科目履修すれば良かったのですが、頭がこんがらないように日本史と地理、世界史と地理、となる生徒がほとんどでした。
実は私も世界史には手をつけていません。

私のような世界の歴史に無知な大人を作らないために生まれたのが「歴史総合」のようで、
世界全体の動きから日本の歴史を再び学び直すことができて、大変面白い科目です。私には。

しかし、勉強が好きでない生徒には、論述が多く、簡単に終わらせることができないため、悩みの種となっています。そこで冒頭に記したぐちが絶えないわけですが
高校生と一緒に勉強していると、人生のどの段階で知識が役に立つのかわからないもんだなぁ、としみじみ感じることが多いです。

私は高校生の頃、生物での大学受験を考えていた時があったのですが、そもそも完全文系人間だったため、高2のときの生物の授業があまりにもちんぷんかんぷんであえなく挫折。
高3では覚悟を決めて、文系オンリーの学校生活を送りましたが、得意な科目ばかりの毎日はほんとパラダイスとなりました。

そんな生物と私との悲しい過去があったのですが、今年は生徒と一緒に生物を勉強する必要があり、
高校生のとき途中で投げ出したものがブーメランのように戻ってきたー!と感じています。

それでもやってみると基礎事項ぐらいならなんとか理解できるもので、高2のときの私はとにかくDNAとか細胞とかに、なんの興味も持っていなかったんだなぁと思います。興味のないところに理解はないのは、人間関係に限らないようです。
(STAP細胞のおかげで、細胞に興味が持てるようになりました。)

英語にも、苦手意識を持つ生徒が多いのですが、
英語を不正確でも、とにかく話せるのならば、世界中かなりの人たちとコミュニケーションがとれるようになるわけですから、
苦手とか得意とかでなく、コミュニケーションスキルの一つとして捉えるのがいいのにな、と思うのです。
いっそ英語を受験科目から外して、授業もオーラルのみにすればなぁ。

それでは古文はどうなんでしょうか。
私は学生時代、京都に住んでいて、京都駅に近い大型書店でアルバイトをしていました。
京都というのは外国人観光客の多いところなのですが、そんなフォリナーたちが口々に求める本がありまして、それが「葉隠」という本の英訳本だったのです。

日本文学専攻のくせに寡聞にも知らなくて、むしろフォリナーたちに教えてもらったような格好でしたが
「武士道とは死ぬことと見つけたり」の一文が有名なこの本について、目をキラキラさせながら語るサムライオタクのフォリナーたちと話すにつれて、古文は決して古くさいものでなくて、今もなお息づいていることを実感したものです。

シェイクスピアが今もなおイギリス人に愛されて英国文化の血肉となっているように、
私たちも日本の古文を文化の基礎として堂々愛していきたいものだなぁと思います。
こちらも、受験科目から外したらよいのでは。
ひとでも勉強でも、気楽な気持ちで対面するのが、いちばんよいお付き合いとなりそうな気がします。




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