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冒頭写経するマイブーム
時々、なにかに取り憑かれたように、好きな作家の文章を「写経」してしまう。そしていつもため息をつく。
なんでこんなふうに書けるんだ、とぼう然とする時間も写経の醍醐味である。
多くの人が言うように、良い文章にはリズムがある。声に出して読めばリズムがわかりやすいのは当然ながら、不思議なことに、タイピングをしてもそれを感じることができる。その感覚がたまらなくて、むしょうに写経したくなるのだ。
昨日、その波が(いつものように)唐突に訪れた。
それも、いろんな人の文章を写経したくなった。
なので冒頭だけを写経してみることにした。
「これはどの作家の、どの作品かな?」
イントロクイズのように予想しながら読んでみてほしい。
そして、冒頭を読んだだけで引き込まれるものがあれば、ぜひ作品を読んでみてほしい。(読み直したくなる人もいるかもしれない)
正式には松本春綱先生であるが、センセイ、とわたしは呼ぶ。
「先生」でもなく、「せんせい」でもなく、カタカナで「センセイ」だ。
高校で国語を教わった。担任ではなかったし、国語の授業を特に熱心に聞いたこともなかったから、センセイのことはさほど印象に残っていなかった。卒業してからはずいぶん長く会わなかった。
数年前に駅前の一杯飲み屋で隣り合わせて以来、ちょくちょく往来するようになった。先生は背筋を反らせ気味にカウンターに座っていた。
私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた。だから此処でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚る遠慮というよりも、その方が私に取って自然だからである。私はその人の記憶を呼び起こすごとに、すぐ「先生」と云いたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。余所余所しい頭文字などはとても使う気にならない。
ここにあるのは、蒔野聡史と小峰洋子という二人の物語である。
彼らにはそれぞれにモデルがいるが、差し障りがあるので、名前を始めとして組織名や出来事の日付など、設定は変更してある。
もし事実に忠実であるなら、幾つかの場面では、私自身も登場しなければならなかった。しかし、そういう人間は、この小説ではいなかったことになっている。
彼らの生を暴露することが目的ではない。物語があまねく事実でないことが、読者の興を殺ぐという可能性はあるだろう。しかし、人間には、虚構のお陰で書かずに済ませられる秘密がある一方で、虚構をまとわせることでしか書けない秘密もある。私は現実の秘密を守りつつ、その感情生活については、むしろ架空の人物として、憚りなく筆を進めたかった。
この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。
でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。
大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
たとえば、星を見るとかして。
腹を空かせて果物屋を襲う芸術家なら、まだ恰好がつくだろうが、僕はモデルガンを握って、書店を見張っていた。夜のせいか、頭が混乱しているせいか、罪の意識はない。強いて言えば、親への後ろめたさはあった。小さな靴屋を経営している両親は、安売りの量販店が近くに進出してきたがために、あまり良好とは言えない経営状況であるにもかかわらず、僕の大学進学を許してくれた。一人暮らしの仕送りを出すことを決断してくれた。そんなことをさせるために大学へやったのではない、と彼らが非難してくれば、そりゃそうですよね、と謝るほかなかった。
細い県道沿いにある、小さな書店だ。
午後十時過ぎ、国道が近くを走っているはずだが、周囲は薄暗かった。車の音もない。周りには、昔ながらの民家がぽつぽつとあるだけで、人通りも皆無だった。
台所でスパゲティーをゆでているときに、電話がかかってきた。僕はFM放送にあわせてロッシーニの『泥棒かささぎ』の序曲を口笛で吹いていた。スパゲティーをゆでるにはまずうってつけの音楽だった。
電話のベルが聞こえたとき、無視しようかとも思った。スパゲティーはゆであがる寸前だったし、クラウディオ・アバドは今まさにロンドン交響楽団をその音楽的ピークに持ち上げようとしていたのだ。しかしやはり僕はガスの火を弱め、居間に行って受話器をとった。新しい仕事の口のことで知人から電話があったのかもしれないと思ったからだ。
「十分間、時間を欲しいの」、唐突に女が言った。
僕は人の声色の記憶にはかなり自信を持っている。それは知らない声だった。「失礼ですが、どちらにおかけですか?」と僕は礼儀正しく尋ねてみた。
「あなたにかけているのよ。十分だけでいいから時間を欲しいの。そうすればお互いよくわかりあうことができるわ」と女は言った。
「わかりあえる?」
「気持ちがよ」
僕は戸口から首をつきだして台所をのぞいた。スパゲティーの鍋からは白い湯気が立ちのぼり、アバドは『泥棒かささぎ』の指揮をつづけていた。
いつものいやなあのばかばかしい高校から帰ってくると、机の上に麻の袋が置いてあって、何百年も生きてるみたいなうちのおばあちゃんがいつのまにかうしろに来てて、
「でてきたんだよ」
といった。
「なに?」
「あけてごらん」
あけてみた。舞い立つうすぼこり、からだに悪そうなかびのにおい、そしてその奥から、おっそろしく古いノートの束がでてきた。私、動けなくなった。しばらくそのまま立ちすくんでて、やっといったの。
「おばあちゃん、ひょっとしてこのノート」
「そう」
おばあちゃんは部屋を出ていきながらふりかえらずいったみたい。
「あのこの、あのノートだよ」
わかってる。もちろん。あのこ、ってもちろん弟のこと。私には弟がいた。とっても、とっても変わったやつ。でも私、あのこのことは大好きだった。ほんとにそう。
伸ばした右手の指先には感覚がないみたいだった。震えてるわけじゃないの、冷たいゴムが被さったって感じ。私、自分がその、いちばん古いノートに触ってることにしばらく経ってからようやく気づいた。
しばらくってどれぐらい?
わかんない。その時間は、私にはわからない。
表紙には年号がかいてあって、数字はぜんぶ、活字みたいにきっちりまっすぐに立ってて、四歳でこれかいたなんて、私には信じられない。でも引き算すればたしかにそうなる、あのこの声があんなになっちゃった事故の二年前。四歳。ふつうならまだ赤ん坊。
「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳のあとだと云われたりしていたこのぼんやりとしたものがほんとうは何かご承知ですか。」先生は、黒板に吊した大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指しながら、みんなに問をかけました。
カンパネルラが手をあげました。それから四五人手をあげました。ジョバンニも手をあげようとして、急いでそのままやめました。たしかにあればみんな星だと、いつか雑誌で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気持ちがするのでした。
ところが先生は早くもそれを見附けたのでした。
「ジョバンニさん、あなたはわかっているのでしょう。」
ジョバンニは勢いよく立ちあがりましたが、立って見るともうはっきりとそれを答えることができないのでした。ザネリが前の席からふりかえって、くすっと笑いました。ジョバンニはもうどぎまぎしてまっ赤になってしまいました。先生がまた云いました。
「大きな望遠鏡で銀河をよっく調べると銀河は大体何でしょう。」
やっぱり星だとジョバンニは思いましたがこんどもすぐに答えることができませんでした。
先生はしばらく困ったようすでしたが、眼をカンパネルラの方へ向けて、
「ではカンパネルラさん。」と名指しました。するとあんなに元気に手をあげたカンパネルラが、やはりもじもじ立ち上がったままやはり答えができませんでした。
ドアノブをつかむ。氷を握ったように冷たい。その冷たさが、もう後戻りできないと告げているみたいに思えた。
平日の午前八時十分ごろから二十分ほど、この部屋のドアは鍵がかけられていないことを希和子は知っていた。なかに赤ん坊を残したまま、だれもいなくなることを知っていた。ついさっき、出かける妻と夫を希和子は自動販売機の陰から見送った。冷たいドアノブを、希和子は迷うことなくまわした。
ドアを開くと、焦げたパン、油、おしろい粉、柔軟剤、ニコチン、湿った雑巾、それらが入り交じったようなにおいが押し寄せ、おもての寒さが少しやわらいだ。希和子はするりとドアの内側に入り、部屋に上がった。何もかもはじめてなのに、自分の家のように自然に動けるのが不思議だった。それでも、落ち着き払っていたわけではなかった。体を内側から揺するように心臓が鳴り、手足が震え、頭の奥が鼓動に合わせて痛んだ。
玄関に突っ立ったまま、台所の奥、ぴたりと閉まった襖に希和子は目を向けた。色あせ、隅の黄ばんだ襖を凝視する。
何をしようってわけじゃない。ただ、見るだけだ。あの人の赤ん坊を見るだけ。これで終わり。すべて終わりにする。明日には、いや、今日の午後にでも、新しい家具を買って仕事をさがすんだ。今までのことはすっかり忘れて、新しい人生をはじめるんだ。
私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。
どこのでも、どんなのでも、それが台所であれば食事を作る場所であれば私はつらくない。できれば機能的でよく使いこんであるといいと思う。乾いた清潔なふきんが何まいもあって白いタイトルがぴかぴか輝く。
ものすごくきたない台所だって、たまらなく好きだ。
床に野菜くずが散らかっていて、スリッパの裏が真っ黒になるくらいきたないそこは、異様に広いといい。ひと冬軽くこせるような食料が並ぶ巨大な冷蔵庫がそびえ立ち、その銀の扉に私はもたれかかる。油が飛び散ったガス台や、さびのついた包丁からふと目をあげると、窓の外には寂しく星が光る。
私と台所が残る。自分しかいないと思っているよりは、ほんの少しましな思想だと思う。
本当に疲れ果てたとき、わたしはよくうっとりと思う。いつか死ぬ時がきたら、台所で息絶えたい。ひとり寒いところでも、だれかがいてあたたかいところでも、私はおびえずにちゃんと見つめたい。台所なら、いいなと思う。
いちばん最初に目にとびこんでくる文。その始め方。語り手はだれか。一人称はひらがなか、漢字か…というか、ひらがなと漢字をどう使い分けているか。どこに句読点を打っていて、どこで改行しているのか。
すこし切り取っただけで、書き手の個性があらわれる。
冒頭文は、ファンからすれば「これぞこの人の文章!」と感じられる喜びがあるけれど、作品によってまったく違う書き方で始める作家さんはいて、(同じ作家さんの冒頭文をいくつか写経してみて気づいた)ここにはプロの技巧がつまっているのだなとあらためて思った。
自分が思い込みでタイプしてしまった箇所を原文どおりに修正するとき、その作家がどうしてそのように記述したのかが気になる。想像する。
いつか直接尋ねてみたい……
次は、締めの文章を写経してみたくなってきた。
大変だ。時間が足りない。(楽しい。)